その時分、温泉宿の中では、池田良斎と、北原賢次とが、炉辺《ろへん》で面《かお》を見合わせ、
「やっぱり鈴慕ですよ、ですがあの鈴慕は、琴古の鈴慕とは少し違うようです」
と北原賢次がまず言いました。北原は、相当に尺八についてのたしなみ[#「たしなみ」に傍点]があると見なければなりません。
「なるほど、今のが鈴慕ですか」
 良斎が言いました。これを以て見れば、良斎の方は、尺八の音について、さまでの造詣《ぞうけい》はないものと見てよろしいでしょう。
「鈴慕には違いないと思いますが、少し手が違います、琴古の手とは手が違うが、音そのものに思わず引きつけられました」
「尺八のわからない拙者も、なんだか、こう聞いているうちに、遠いところへ持って行かれるような気分で、人生の物の哀れとか、悲壮な超人の心の痛みとかいうものに誘われて、縹渺《ひょうびょう》とした心持にされていたのが不思議です。いったい誰だい、あれを吹いていたのは」
「左様、村田寛一ではありませんか」
「いいえ、村田ではない、村田は浄瑠璃《じょうるり》はお天狗だが、尺八の方は、あれまではやれまい」
「では市川君」
「市川は、喜多流の仕舞《
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