で、その人柄と、用向とも、全く想像のほかと言わなければならないが――この旅人《りょじん》には相当のあたりがついていると見えて、さのみ臆する模様もなく、道に迷うている者の姿とも見えず、ほぼ白骨温泉場の道をたどりたどって、ともかくも、梨ノ木平のあたりを無事に過ぎて、つい[#「つい」に傍点]通しの渓流のところまで、さまで深くない雪を踏み分けて、歩み来ったものです。
 そうして、つい[#「つい」に傍点]通しの橋上にかかる時分になって、右しようか、左しようかと、ちょっと思案に立ちどまった時、ふと耳にさわる物の音を聞きました。
 それが例の鈴慕の曲なのです――だが、この旅人は、虚空がどうして、鈴慕がどうしてと、聞きわけるほどの耳を持合わせずに、ただ、笛が鳴る、短笛だ――意外にして意外でないと、足を留《とど》めて、耳をすましただけのものであります。
 この旅人というのは、まぎれもなき宇津木兵馬であります。
 こうして宇津木兵馬は、鈴慕の笛の音に引かされて、白骨の温泉の湯元まで、知らず識《し》らず引寄せられて来ました。
 しかし、兵馬がこの温泉場近いところまで来た時分には、笛の音は全く絶えておりました
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