すよ、まだ、あのお山の頂《いただき》へは、誰一人も登った者は無いそうでございます」
「そうかなあ」
「槍ヶ岳は、あの通り、槍の穂先のように鋭くそそり立っておりますが、それでも、登れば登れるそうでございます、立山の剣山ばかりは、誰も登ったものは無し、登ろうとする者さえ無いと聞きました。よし、登ろうとする者があっても、どちらから見ても、あの通りの断崖絶壁で、手脚の着けどころが無いのでございます。そうして、じっと見ているうちに身の毛が立って、怖《こわ》くなって、さすが向う見ずの山登りも、断念して帰るのだそうでございます……昔の弘法大師さえも、千足の草鞋《わらじ》を用意なすって、それを穿《は》ききってもまだ登れなかったのが、あの山だそうでございます」
「なるほど、そうかも知れない……でも、今、誰か登っているようだぜ」
「御冗談《ごじょうだん》でしょう、よしんば登る人がありましても、ここからそれが見えるものですか」
「ところが、この眼で見える――おれの眼はどうかしているのか知らん、ああ、今日は何もかも見え過ぎるほど、見える」
「あなたにお見えになるほどのものが、わたしに見えないはずはございますま
前へ 次へ
全157ページ中146ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング