たと吸い寄せられてしまいました。
 一旦、少しばかりハニかんで、人間味を見せたお雪が、ここで以前の、超現実の説明者の地位に戻りました。
「昔、昔、那須の国造《くにつこ》が、八溝山《やつみぞさん》の八狭《やざま》の大蛇《おろち》を退治しなければならないために、それには、どうしても駒ヶ岳の天津速駒《あまつはやごま》に乗り、乗鞍ヶ岳から天安鞍《あめのやすくら》を、槍ヶ岳から天日矛《あめのひほこ》を、立山から天広楯《あめのひろたて》を借受けなければならないと、はるばるこの信濃の国まで、たずねて参りました……」
 お雪は、ここまで語りつづけた時に、自分が語り聞かせようとしている当の人が、自分の説明を、少しも聞いていないことをさとりました。
 自分の説明を聞いていないのは、自分の言うところに注意するよりは以上に、注意すべき何物にか心を奪われているのでしょう。
 そこで、無益の説明を中止して、その人の凝立《ぎょうりつ》して、眼を吸い寄せられているところを、お雪が安からぬ色で認めて、
「そんなに、あの山がお気に入りましたか」
 でも、返事がありません。
「あれは越中の立山の剣山《つるぎざん》でございま
前へ 次へ
全157ページ中145ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング