も言いませんでした。
一言も言わないのみならず、先方でまだ気がつかないでいるのを幸い、自分も、あの人の帰るまで、姿を見せないでいるのが分別《ふんべつ》だと心を決めてしまったのは、全く聡明な思いやりでありました。
無論、お雪は、二人の間の執拗《しつよう》なる葛藤《かっとう》を、少しも知っているのではない。
ただ、こちらは隠れている人、隠れないまでも、人に会わせたくも、逢いたくもない人であるのに、先方は、今時分、こうして、この山奥まで、雪を冒《おか》して、入り込んで来る以上は、それは徒《いたず》らに紛《まぎ》れ込んだと思われない、道に迷うたともいわれない、何か目的があり、何か尋ね求めんとするものがあればこそ、この時分、このところへ、わざわざ足を踏み入れたものに相違ない。
もしや、心安立《こころやすだ》てに面《かお》を合わせることが緒《いとぐち》となって、退引《のっぴき》ならぬこんがらかりに導いた日には、取っても返らないではないか。
あの若い方は、素直な方であるし、自分にとっては、危うきを救われた恩人である。この場合、知って知らないふりをするのはつらいけれど、思い合わせてみると、そ
前へ
次へ
全157ページ中127ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング