、たしか、ただいまの尺八の音の起ったのは、この辺でなければならぬと思われるところあたりに、一向、燈火《ともしび》の影がないことです。
尺八の音がするのだから、音をさせる人がいるに相違ない。音をさせる人がいる以上は、その部屋があるに相違ない。夜分、部屋に坐って尺八でも吹こうという人が、燈火《あかり》もつけないでいるはずはない。不意にその火が消えたとすれば、多少|狼狽《ろうばい》の気味が見えなければならないのに、そんな気《け》ぶりは微塵《みじん》もないし、たったいま尺八を吹いたばかりで、もう燈火を消して寝込んでしまったとも思われない。
兵馬は、変なところへ引込まれたような気になりました。
そこで兵馬は、茫々然《ぼうぼうぜん》として自失するの思いです。跫音《あしおと》に導かれて、かえって無人の曠野《こうや》へ連れて来られたような心持を如何《いかん》ともすることができません。
今の先、尺八の音のした室の前をも、兵馬は通るには通ったのです。それも、忍びやかに通ったのではなく、堂々と通り過ぎたのだが、人の気配を、どうしても感得することができずにしまいました。
そうして、自分の部屋へ帰って来て見ると、六曲|屏風《びょうぶ》が一つ、自分の寝床の前に立てめぐらしてありました。
まあ、すべてにおいて、入りかわり立ちかわり、親切と好意を示してくれる人がある。
独《ひと》り寝の旅の枕が寒かろうとして、屏風を持って来て貸してくれたのは、宿屋が客に対する商売気の親切ではなく、同宿の冬籠《ふゆごも》りの客同士の思いやりから出ているのだ。
有難いと思って、もうかなり更けていることでもあるから――但しこの座敷には、最初から行燈《あんどん》の火が細目にしてあったものです。衣服を改めて、遠慮なく寝床の中へ飛び込んでしまいました。
で、かなり勢いよく床について、燈火を消してしまおうとする途端に、その六曲屏風には、一面に墨絵の竹が描いてあるなと思いました。それは墨竹ではなく、全体に竹藪《たけやぶ》として描かれてあるもののようでしたが、それを認めた途端に、燈火《ともしび》を消してしまったから、自然、まもなく眠りに落ちた時の兵馬の夢が、竹藪に入って行くのはぜひもないことです。
絵に見たのは墨絵でしたが、夢の中では、兵馬は、真蒼《まっさお》な、限りも知られぬ竹藪の中に彷徨《ほうこう》しているところの自分を発見しました。
どうも困ったものだ、和藤内《わとうない》ではないが、行けども行けども藪の中。
こんなところへ迷い込んで来るつもりはなかったのだが、どうも仕方がない。
迷いこんでみれば、歩くだけ歩いて、抜けるところへ抜けなければならないのだ――と、歩いているというよりは、やはり彷徨しているうちに、藪の中で一人のおやじが頻《しき》りに竹を切っている。
何をするかと見ると、竹を切っては頻りに尺八を取っているらしいから、兵馬が夢のうちで、何だ、あんまりこしらえ過ぎる、宵に尺八の音を聞いたからといって、ここで尺八を見せなくってもよかりそうなものを、夢にしても、あんまり幼稚な複写だと、夢中に夢を評するような心持で、その前を通り過ぎたが、やはり竹藪で、兵馬は尺八だけは、夢中に夢を観ずる気持で見ましたけれど、竹藪の中を歩いている夢は、やはり夢ではない、うつつの彷徨《ほうこう》でありました。
そうして、ともかくも夜もすがら兵馬は、竹藪の中を歩きつづけている夢を見て、暁に徹しました。
今までいろいろの夢も見たが、一晩中、竹藪の中をさまよいつづけている夢を見通したのは初めてだ。そこで、鶏の声が聞えたから、はあ、もう占めたものだと夢うつつのさかいで、ホッと息をついていると、どこかで荒らかに戸をたたき、
「兵馬、兵馬、宇津木兵馬が、もしやこのところに来てはいないか、仏頂寺弥助と、丸山勇仙がやってきたよ」
すわ! と夢うつつのさかいを破られました。来たな、どの面《つら》下げて何といって来たか。亡者《もうじゃ》とは言いながら、よく[#「よく」に傍点]かぎつけて来たものだ。こうなってみると、どっちが先走りをしたものかわからない。
だが、あのいけ図々しいおとないぶりを見ても、このまま飛び出して対面してやるのも癪《しゃく》だ、竹林は抜けて鶏の音は聞いたが、実はまだ眠いのだ、よし、もう一寝入りして、奴等の気を腐らせてやれと、兵馬も相手が相手だけに、兵馬としては似合わしからぬ、狸寝入りを試みているうちに本物になって、寝耳のところに、
「兵馬、仏頂寺と、丸山が来たよ、いるんなら起きて出迎えろ」
それをうとうとと小気味よく聞き捨てて、やはり夢うつつのところを彷徨しています。
九
その翌日は、白骨温泉の炉辺閑話に、変った面触《かおぶ》れが一つ現われました。
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