それは仏頂寺弥助でも、丸山勇仙でもなく、無名沼《ななしぬま》のほとりの、鐙小屋《あぶみごや》の神主が来たのであります。神主は山へ登ることは登るが、ここへ下りて来ることは極めて稀れであります。
 そこで炉辺が、この珍客を迎えて賑《にぎ》わいました。
 炉辺閑談といううちに、ここへ集まる定連《じょうれん》のかおぶれを、ざっと記して置きましょう。
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国学者兼神楽師   池田良斎
その一行      北原賢次
同         村田寛一
同         中口佐吉
同         堤一郎
同         町田政二
俳諧師       柳水
画師        木川宗舟
甲州上野原     久助
同         お雪
山の通人      吉造
山の案内      茂八
温泉留守番     嘉七
猟師        十太郎
同         良太
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 だいたい、こんな面触《かおぶ》れで、定刻に至ると閑談の席が、開かれるのです。
 定刻というのが、必ずしもきまった時刻という意味ではなく、まず退屈の者が二人ばかり炉辺へたかって、火を焚きながら、無雑作《むぞうさ》に話のきっかけを作ると、それが緒《いとぐち》となり、炉の火が燃えさかると同時に、話がはずみ、話がはずむにつれて人が集まり、おのずから全員出揃いとなって、そうして、相当に節度あり、進退のある閑談の蓆《むしろ》が開かれるのですから、人の集まる時がすなわち定刻で、それは晴雨によって、人々の仕事都合によって、おのずから変化します。
 今日は、お正午《ひる》少し過ぎに、山の神主が来たものですから、すなわちその時が会議の定刻となりました。山の神主は例によって、えびす様そのもののような笑顔をたたえきって、もろもろの話をはじめました。
 下で神主が、もろもろの話をはじめている時分、宇津木兵馬は二階で日記を書いておりました。
 兵馬に感心なのは旅日記を書くことで、不可抗力の際でもなければ、曾《かつ》てこれを怠るということがありません。
 ただ一つの惜しいのは、喜多川季荘ほどの考証癖があるか、せめてお雪ちゃんほどの文才があれば、この旅日記そのものが、後に残るほどの文献となったかも知れませんが、この点において兵馬は全く不用意であり、子孫に伝えようの、後世に残そうのという衒《てら》い気味は少しもなく、ただ今日の心覚えを、明日の参考にとどめておく、金銭出入帳に毛の生えた程度のものに過ぎないのですが、書いていれば、日課としてそれをしなければ、朝起きて面《かお》を洗わなかった時のように、一種の不愉快を伴うほどの習慣になっているのです。
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「白骨ノ温泉ニ到着ス
病気
コノ地、秋ヨリ冬ニカケテハ、旅宿ハ戸ヲ釘ヅケニシテ里ニ去ル例ナレドモ、今年ハ珍シク冬籠《ふゆごも》リノ客多数居残リヲレリ……」
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といった程度の文章で、歌もなければ、発句《ほっく》もない。文学的感傷めいたひらめき[#「ひらめき」に傍点]は一つも現われて来ないのだから、問題になりません。
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「病気程無ク快癒
昨夜三階ノ一室ニ人有ルガ如ク、無キガ如キ思ヒス、尺八ノ音起リテ忽《たちま》チヤム
明日、コノ処ヲ発足センカ、マタハモ暫ク逗留センカ、未《いま》ダ決心セズ」
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というようなことを書いて、さて兵馬は、これから下へ行って炉辺閑談の席へ加わろうか、また入浴に行こうか、と思案したが、やがて手拭を持ってズカズカと出かけたところを見れば、閑談の席へは行かず、入浴を志したものでしょう。
 兵馬が手拭を下げて出て行ったあとへ、お雪が入って来ました。
 炬燵《こたつ》へ火を入れて上げようとして来て見ると主《ぬし》がいないので、失望しましたが、鉄瓶にお湯があるかないか、お茶道具が揃っているかいないかというようなことを、ちょっと調べながら、机の上を見ると、半紙四つ折りの日記帳が開《あ》けっぱなしになって、その間に筆がはさんでありますから、お雪は見る気もなく、それをのぞいて見ました。
 物を書くことの好きな、歌をつくることの好きなお雪は、このお客様も筆と紙とを、旅枕にも放さぬ人であってみれば、また同好の風流を話せる人ではないか、というような好奇心もあったものでしょう。
 のぞけば、おのずから、読めるようになっているのだから、それを読んでみると、前にいう通りの棒書きで、歌もなければ詩もない。わが胸の燃ゆる思いに比ぶれば、焼ヶ岳の煙が薄いとか厚いとかいうこともなし、信濃の国の白骨となん呼べるいでゆ[#「いでゆ」に傍点]に遊びてしかじか、と書いてあるのでもない、いわば小遣帳《こづかいちょう》の出来のいいような、徹底的に実用向きの
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