大菩薩峠
鈴慕の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)田舎家《いなかや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六枚|屏風《びょうぶ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「土+巳」、第3水準1−15−36]
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一
天井の高い、ガランとした田舎家《いなかや》の、大きな炉の傍《はた》に、寂然《じゃくねん》として座を占めているのが弁信法師であります。
時は夜であります。
弁信の坐っている後ろには、六枚|屏風《びょうぶ》の煤《すす》けたのがあって、その左に角行燈《かくあんどん》がありますけれど、それには火が入っておりません。
自在鉤《じざいかぎ》には籠目形《かごめがた》の鉄瓶がずっしりと重く、その下で木の根が一つ、ほがらほがらと赤い炎を立てている。
この田舎家の木口というものが大まかな欅作《けやきづく》りで、鉋《かんな》のはいっていない、手斧《ちょうな》のあとの鮮かなところと、桁梁《けたはり》の雄渾《ゆうこん》(?)なところとを見ても、慶長よりは古くなく、元禄よりも新しくない、中通《ちゅうどお》りの農民階級の家《や》づくりであることはたしかであります。
さてまた、弁信の頭の上の高い天井は、炉の煙を破風《はふ》まで通すために、丸竹の簀子《すのこ》になっていて、それが年代を経ているから、磨けば黒光りに光るいぶしを包んだ煤《すす》が、つづらのように自在竹《じざいだけ》の太いのにからみついて落ちようとしている。
そこで、弁信は、熊の皮の毛皮でもあるような敷物をしき込んで、寂然として、何物にかしきりに耳を傾けているのであります。
特に念を入れて何物をか聞き出そうとしないでも、ただこうして坐っていさえすれば、弁信そのものの形が、非相非々相界のうちの何物かのささやきを受入れようとして、身構えているもののようにも受取られることであります。
果して、こうしていると、弁信の耳に、あらゆる雑音が聞え出しました。
聞えるのではない、起るのであります。それは非常なるあらゆる種類の雑音が、弁信の耳の中から起りました。
そうでしょう、この田舎家の存在するところは、内部から見ては、日本の国のドノ地点にあるかわからないが、通常の人がこの中に坐っていれば、それは深山幽谷の中か、そうでなければ、人里に遠い平野の中の一つ家としか思われないことであります。
この一つ家の中には、弁信その人のほかには、絶えて人間の気配のするものを容《い》れていないと同じく、その煤《すす》けた天井には鼠の走る音もあるのではなく、その外壁のあたりに、鶏犬《けいけん》の声だも起らない。周囲に谷川のせせらぎすらも聞えない。軒端を渡る夜風のそよぎすら聞えないところを以て見れば、万籟《ばんらい》死したりと感ずるのは無理もありません。
しかし、夜というものは一体に、沈静と、回顧とを本色とするものですから、普通平凡な景色も、夜の衣をかけて見ると、少なくも一世紀の昔へ返して見ることができるものですから、まして夜更け、人定まった際においては、都会の真中にあってさえ、太古の色をぼかして見せることもあるのですから、ここの深夜の弁信のいるところも、存外、人間臭いところであるかも知れません。
ところで、空寂と、沈静と、茫漠と、暗黒と、孤独とは、形の通りで、弁信なればこそ、仔細らしく耳を傾けて何物をか聞き取ろうと構えているように見えるものの、余人であってみれば、聞き取るべき一言もなく、澄まし込むべき四方《あたり》の混濁《こんだく》というものの全然ない世界ですから、もし弁信の耳が、この間から何物をか聞き得たとすれば、それは彼の耳の中からおのずから起ってくる雑音を、彼自身が、自己妄想的に聞き操っているに過ぎないので、この点は、かの清澄の茂太郎が、反芻的《はんすうてき》に即興の歌をうたうのと同じことなのであります。
といっても、これを一概に妄想扱いにするのは心無き業《わざ》です。
チチアンの眼より見れば、あらゆる普通の人間は、みな色盲に過ぎないそうであります。もし地上に特別の人があって、普通の人の見えない色を見ることができるならば、特別の人があって、特別の音を聞き出さないという限りはありません。
すでに特別の色を見、特別の音を聞き得る人がありとすれば、この普通の人の見得る世界において、普通以上の、或いは以外の世界を――つまり天国といい、地獄というような世界を見ている人がないとは言えないはずです。
城松という盲人は、鳴滝《なるたき》の下で簫《しょう》を吹くと、人ただ簫声あるを聞いて、瀑声あるを聞かなかったそう
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