であります。
 ある夜、忽然《こつぜん》として立って人にいって曰く《いわ》く、ああ、今夜は自分の吹く簫の声が尋常でない、おそらくはこの都下に大変が起ろうも知れぬ、と馳《は》せて愛宕山《あたごやま》に上って僧院に泊ったところが、その夜、洛中洛外に大震があって、圧死するもの無数、それは慶長年間のことであったという話。
 間斎という伯楽《はくらく》は、年四十になって明を失したが、人の馬に乗って戸外を過ぐるものを聞いて、その蹄《ひづめ》の音で馬の駑《ど》と駿《しゅん》と、大と小と、形と容と、毛の色とを判断して、少しも誤らなかったということであります。
 深草の検校《けんぎょう》というのは、享保年間、京都に住んで三絃をよくした盲人であったが、老後におよんで人にいって曰《いわ》く、「私の聞き得たところでは、天地の間には三百六十音がある」
 今、弁信というおしゃべり坊主は、その異形《いぎょう》なる法然頭《ほうねんあたま》の中で何の世界のことを考え、その見えざる眼で、どれだけの色彩を味わい、これのみは異常に発達した聴管のうちに、どれだけの音声を聞きわけるの官能を与えられているか知れませんが、この万籟《ばんらい》死したるところの底において、ついに何物をか聞き出そうとして聞き出し得たものの如く、
「誰やら尺八を吹いておりますね、あれは鈴慕《れいぼ》の曲でございます」
 かく無雑作《むぞうさ》に言って、また仔細らしく小首を傾けたものであります。
 ただし、弁信が感心をはじめた時分には、もう曲は済んでしまったものと見えて、弁信は姿勢をくずして、炉辺の火箸《ひばし》を取って、火をかきならしました。

         二

 弁信が鈴慕の一曲を聞き終って、ホッと息をついた時に、天井の煤竹《すすたけ》の簀子《すのこ》から、自在竹を伝ってスルスルと下りて来たピグミーがありました。
 籠目形《かごめがた》の鉄瓶《てつびん》のつるへ足をかけて、ひょいと炉べりへ下り立つと、無遠慮に弁信と向い合ったところへムズと小さなあぐらをかいてしまい、十年の親しみがあるようになれなれしく、
「弁信さん、淋《さび》しいね」
「あい」
「弁信さん、いやに澄ましこんでるじゃないか」
「ええ、そういうわけでもありません」
「もう少し火をお焚《た》きよ、おいらがこの杉の葉をかぶせてやらあ」
 ピグミーは、杉の枯葉を一つ一つ取って炉の火に加えると、火の色が珊瑚《さんご》のように赤くなりました。
 そこでピグミーは、仔細らしくあごの下へ手を当てて、火の光をながめて、何か弁信の話しかけるのを待っているかのように見えます。
 ところが、弁信がいっこう気乗りがしないようでしたから、ピグミーが、また何かハズミをつけてやらないことには、手持無沙汰でたまらないはめ[#「はめ」に傍点]となって、
「ねえ、弁信さん、今までお前、何を聞いていたの」
「尺八を聞いておりましたよ」
「へえ、おいらにはいっこうそんなものは聞えなかったが、どこで、誰が吹いていたんだい」
「信濃の国の、白骨の温泉で、尺八を吹いているのが、いま私の耳に聞えました」
「じょ、じょうだんじゃねえ!」
 ピグミーが反《そ》っくり返ってしまいました。
「弁信さん、お前、ここをどこだと思ってるんだい――信濃の国というのは、これから一百里も離れているんだぜ、なんぼお前の勘《かん》がいいからといって、信濃の白骨で吹く尺八が、お前の耳に聞えるはずはあるめえ。でも、お前のことだから何とも知れねえ。そうして、その尺八は何を吹いていたんだい、それを聞かしてもらいてえ」
「鈴慕《れいぼ》の曲を吹いていたのですよ」
「鈴慕の曲というのは、どんなんだい、面白《おもしろ》かったかい」
「ええ、ずいぶん感心を致しましたよ、今までに覚えのないほど、感じてしまいました」
「そうかね、お前がそれほど感心するくらいならずいぶん面白かったろう。そうしてそれは、どんなに面白かったんだい、それを聞かしておくれな。いやいや、それより先に、その鈴慕の曲ってやつはいったい、何だね、何を意味しているんだか、弁信さん、お前はものしりだから、そいつから先に教えておくんなさいな」
「それは、わたしでなくったって、少しでも尺八のことに心得のある人は、鈴慕の名前ぐらいは誰でも知っていますよ、また相当に稽古をした人は、吹けといえば誰でも吹きましょう、別に珍しい名前でもなければ、秘曲というほどのものでもございません。ですから、私共のようなものでさえ、こうして耳を澄ましていますと、ははあ、あれは鈴慕だな、と忽《たちま》ちに合点《がてん》を致すのでございます。で、私も、これまで堪能《たんのう》の方々から、鈴慕を聞かせていただいたことは幾度かわかりません、聞かせるには聞かせていただきましたけれど、不敏な私に
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