ものにしておいて、これさえつきつければ一言もあるまい、その弱点を押えて、哀願する態度を見てやれば胸が透く――と、こんなふうに取ったのかも知れません。
なるほど、そこには、やさしい女文字の水茎《みずくき》のあとが、長々と紙の上にたなびいている。こういう手紙を人に知らさず認めて、胸を躍らせながら、やりとりすることは憎い!
しかし、御安心ください。この場合、この水茎のあとは、少しもピグミーの好奇、嫉妬、呪詛《じゅそ》を満たすべき何物でもありませんでした。
それはお雪から、毎日、日課のようにして弁信にあてて書く手紙です。
[#ここから1字下げ]
「弁信さん――
どうしたのでしょう、このごろになって、この温泉へ、お客様が不意に殖え出してきましたのよ。
昨日は、またお若い旅のさむらいが、夜中においでになったかと思うと、今日はまた、そのお連れであるらしい二人連れのさむらいがおいでになりました。
前に見えた、若いお方は、なんとなしお痛わしいような、初心《うぶ》なところがありましたけれど、あとから来た二人のお方は、なんだか気味の悪いお方です。
一人は、筋骨の逞《たくま》しい武芸者のようなお方、もう一人は、お医者さんの修業でもなさろうというような風采《ふうさい》の書生さんですが――いま考えてみると、二人とも、どうも、どこやらでお目にかかったようなお方です……」
[#ここで字下げ終わり]
八
それはそうと、一方において、その晩、宇津木兵馬がかなり忍びやかに、この三階まで入り込んだことは事実であります。
そうして、ここはと思われるような部屋部屋を、逐一《ちくいち》にのぞき廻っていたことも事実であります。
好んで探偵眼を働かせるわけではないが、本来、この人は入湯に来たのではなく、人をたずね求めに来たのであります。
そのたずね求める人というのは、主流には兄の仇であり、傍流にはかりそめ[#「かりそめ」に傍点]の道連れの女の人であります。
前の者は身命を賭《と》して、探さんとする目的ではあるが、後の者はどうでもいいのである。
どうでもいいよりは、そんな者にかかわり合いをつけない方がいいのである。
だがしかし、世間のこと、人生のことというものは、求めんとするものほど来《きた》らず、求めざらんとするものほど近より易《やす》いもので、そこで、中房の温泉でも、こうして宿屋の間毎間毎を探し試みているうちに、蒲団《ふとん》の塁《とりで》の中で見つけなくてもいい仇《あだ》し女を見つけてしまいました。それが縁で、今はその女をも何とか先途《せんど》を見届けてやらないことには、自分の良心にやましいような事態となりました。
そこで、まだややものうい身体を運んで、片手には一刀を携え、そうしてこの間毎間毎を忍びやかに探りながら来たのではあるが、一体に人間臭の無いことは中房以上です。
兵馬はさもあるべきことと一巡しながら、廊下を半ばまで来た時分に、短笛の音《ね》が起りました。尺八の声です。実は前の晩も、この尺八の声に引寄せられて来たような姿でした。それが今、不意に、しかしながら、極めてしめやかに起ったのは、つい自分の行手の、鍵の手になった廊下の奥の一間からであります。
この物音に、兵馬が足を踏みとどめました。
それが何の曲ということを、兵馬は知らない。
ただ第一に、気を取られたのは、心なく、人の清興を妨げてはならないということでした。
第二に、少なくともこの場合、自分の行動が紳士的でないというようなことを考えました。つまり、無下《むげ》に来るべきところでないところへ入りこんだのは、先方から何かの疑惑をかけられても仕方がない立場だから、これより以上は一歩も進まないで、その清興の人の心を、かりそめにも動かさず、静かにもと来し道へ帰るのが礼ではないか、と思いましたものですから、ちょっと行き悩みました。
しかし、兵馬が、こんな思案をして、用心して、引返そうとしているうちに、尺八の一曲も終ったと見えて、また、ひっそりした天地にかえったものですから、それならば、いっそ、ここをずっと突きぬけて、いま尺八の音のしたあたりの部屋の前をも通り過ぎて、廊下のはずれから二階へ下りて、自分の部屋へ帰った方がよかろうと思案を改めます。
つまり、尺八を吹き鳴らしている間こそ、人の清興をさまたげては悪いという遠慮気兼ねもあるが、それが済んでしまってさえみれば、さりげなき体《てい》で、尋常の通行人として、その通り去り、通り来《きた》る分には、何の憚《はばか》るところもあるべきはずがない。
そのように思案を改めたものですから、兵馬はそれからは忍び足もせず、間毎間毎をうかがうような振舞もせず、尋常に足音を立てて廊下を歩んで、志す方へと行きましたが、不思議なことには
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