地獄では大変に幅が利《き》きますのよ」
「…………」
どうも、そう言われてみると、軽蔑と、冷笑とを以てしながらも、それを見ないわけにはゆきません。そこでお浜は、
「芝の山内《さんない》の松原で、あなたから、こんな目に逢わされてしまいました、この乳の下のがずいぶん深うございますよ、地獄へ来て、かかりのお医者様も驚きました、こういう無残な突き方は無いそうでございます、ですから、ごらんなさい、今でもこの通りなおりません、ひとりでに血が流れて参ります」
この時、お浜の面《かお》の色が真白にさえきって、呼吸が少し、ハズんだように見えましたが、その着物を投げ出すとまた向き直って、一心に着物をたたみながら、
「そんなことは、どうでもようござんす、昔のことを繰り返してみたところで、おたがいにいい気持はしませんからね。それよりか、あなたにぜひ一つのお願いがあるんですよ、これだけは、たって聞きとどけて下さいまし」
改まって言い出したが、竜之助は答えませんでした。
「ねえ、あなた」
相も変らずお浜は、着物をたたんでは積み、積んではたたみながら、
「ねえ、あなた、兵馬が今、わたしのところに来ていますが、会って下さらない」
「兵馬――兵馬とは誰だ」
「ほんとに白々しい、宇津木文之丞の弟ではありませんか」
「ははあ」
「文之丞の弟は、わたしにとっても弟ですよ、弟が、あなたに会いたいといって、はるばるたずねて来ましたから、会ってやって下さいな」
「会おう」
「ではここへよびましょうか」
といってお浜は、着物をたたむ手をちょっと休めて、前の方を見込み、
「このなりじゃ、わたしには行けない」
と、本意《ほい》ない色を現わしました。
この時、天井の一角が、けたたましい音をして急に破れたと思うと、そこからピグミーの足が二本ブラ下がり、早くもお浜の前に飛び下りて小躍《こおど》りし、
「かたき[#「かたき」に傍点]討がはじまるんですか、それでは僕が行って参りましょう、僕が早速沙汰をして参りましょう、僕が……」
お浜は、さげすむように、ピグミーのはしゃぎ立つのを見おろして、
「お前ではいけない」
「どうしてです、どうして僕じゃいけないんです、呼んで参りましょう、かたき[#「かたき」に傍点]討がはじまるんなら、ぜひ僕にも見せて下さい、みんなも見たがるでしょう、ぜひ、ぜひ、僕をお使い下さいな」
「騒々しいねえ!」
お浜は物差を取り直して、ピグミーを横なぐりにすると、そのまま畳の中へ没入してしまいました。
立場を失ったピグミーは、畳の下をくぐって、お雪の寝ているその枕もとに現われました。
ここに出没するピグミーは、全く眼の見えない人か、或いは眼が見えても、見えないと同様に、眠っている人にしか現われないらしい。
真黒な細身を、にちゃにちゃとお雪の枕もとへ摺《す》り寄せて、
「お嬢さん」
と猫撫声《ねこなでごえ》で、
「お嬢さん、よくお寝《よ》っていらっしゃいますね」
お雪の眼のさめないのをいいことにして、その枕もとに這《は》い迫り、
「いつも、お一人でここにおやすみになるのですか、お若いうちはようございますね、何も知らずやすんでいらっしゃる」
言わでものことを言いながら、お雪の寝顔をしげしげと見入り、にっこり笑って、立ち上ると、妙な足拍子を取って、蒲団《ふとん》の四隅を、八角に廻って踊りはじめました。
一廻り踊っては寝顔をながめ、また一廻り踊っては寝顔をながめ、自己陶酔の形で踊り狂っていたが、ついには興に乗じて、蒲団の上へ飛び上り、また飛び下り、蒲団の裾へいくつものわな[#「わな」に傍点]をこしらえ、手を拍《う》って喜んでみたが、やがて、それにも飽きたと見え、物珍しそうに、この部屋の天井の隅から畳の溝までも見わたすと、忽《たちま》ち身を躍《おど》らして、吊棚《つりだな》の上へ飛びあがりました。
ピグミーは探し事を好むらしい。人のすきに乗じて、人の気のつかないところを笑ってみて、何かその間に獲物《えもの》を得ることを以て、この上なき誇りとするらしい。やっぱり物好きは暗いところにある。
だが、不幸にして吊棚の上には、その好奇心の餌食になるべき何物も見出せなかったらしく、今度は身を軽く、吊棚から戸棚の透間へ入り込んで、しきりに音をさせていたが、そこでも思わしいものを発見し得なかったと覚しく、失望の色をたたえて立ち出で、最後に見出したのは、お雪の枕許《まくらもと》の手文庫です。
その蓋《ふた》をあけて、取り出した一巻の紙きれ――さてこそ、さてこそ、とほくそ笑みしたピグミーは、それを行燈の下へ持って来て繰りひろげて、ひとり合点《がてん》に、痛快の色を面《おもて》に現わしました。
多分、ここにおいて、はじめて秘密のものを発見し得た、これを此方《こっち》の
前へ
次へ
全40ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング