し呆《あき》れ返る幕が見られるはずなのを、皮肉といおうか、これも偶然といおうか、火と、炭と、お粥とを持って来たものは、約束のお雪ちゃんではなくて、洒然《しゃぜん》たる北原賢次でありました。しかも、その北原賢次が入り込んで来た時に、宇津木兵馬が眠っていたということも、ゆくりのないことです。
兵馬は熱をとってしまおうとして、用意の薬を熱湯に注いで頓服し、そうして蒲団《ふとん》の温みに圧《お》されて、昏睡的《こんすいてき》に眠りに落ちた時分に、北原賢次はお雪に代って、粥と、火と、炭と、アルバムとを持って来たのですが、兵馬の熟睡を見すまして、そっとそれらのものを枕もとに、程よく配置しておいて、直ぐに出て行ってしまいました。
兵馬が眼をさましたのは、それよりズット後のことで、ほとんど熱もとれて、頭も軽くなった気分で、枕もとを見ると、そこにかなりに行届いた待遇がしてあるものですから、兵馬は、あの親切な娘さんのしてくれたことだとこの時も感謝の念、と同時に、兵馬は、薬缶《やかん》や土鍋《どなべ》類とは別にして、左の方の蒲団わきに、見なれない一冊の画帖のあることを認めました。
自分のものでない限り、誰かが来《きた》ってここにさし置いて行ったものである。誰かというまでもなく、それは、この火と、炭と、薬缶と、土鍋と、茶道具とを持って来てくれた、親切な人――その人が、旅宿の無聊《ぶりょう》と、病気の慰安とを兼ねて、自分のために、この画帖を貸与してくれたのだとは問うまでもなきことで、兵馬は粥を温めるの手数よりも、その心の慰安がうれしくて、うつぷしに寝返って画帖に手を触れました。
それは折本になっている布装の書画帖で、中に記されたところのものは、多分、この宿に逗留《とうりゅう》の客人の、消閑《しょうかん》の筆のすさびでありましょう。
まず巻頭に、万葉仮名《まんようがな》がいっぱいに認《したた》められてあるが、これは、ちょっと読みにくい。
その次が、かなり癖のある強い筆跡で、
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子房未虎嘯(子房《しぼう》未《いま》だ虎嘯《こしよう》せざりしとき)
破産不為家(産を破り家を為《をさ》めず)
滄海得壮士(滄海《そうかい》に壮士を得《え》)
椎秦博浪沙(秦《しん》を椎《つい》す博浪沙《ばくろうしや》)
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これは有名な詩であるが、ただ、ちょっと兵馬の目ざわりになったのは、
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我来※[#「土+巳」、第3水準1−15−36]橋上(我れ※[#「土+巳」、第3水準1−15−36]橋《いきよう》の上《ほとり》に来り)
懐古欽英風(古《いにし》へを懐《おも》ひて英風を欽《した》ふ)
唯見碧流水[#「碧流水」に傍点](唯だ見る碧流《へきりゆう》の水)
曾無黄石公(曾《かつ》て黄石公《こうせきこう》なし)
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というところの「碧流水」の三字です。
普通は、誰も「ただ見る碧水の流るるを」とか、「ただ碧水の流るるを見る」とか吟じたがり、現に唐詩選にもそのように出ているはずなのを、この筆者は「唯見碧流水」と書いている。碧流水[#「碧流水」に傍点]ではおかしい、多分、筆勢のあまりで間違えたのだろう――というように、兵馬は見てしまいました。
その次には、次のような文字が、無雑作《むぞうさ》に書き飛ばしてある。
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敵は大勢
味方は一人
頼むお前は二心
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ざれがきではあるが、兵馬はちょっと考えさせられました。
さてその次には、多分ここの温泉風呂の浴槽の写生かと思われるが、かなり心得のある四条風の筆法で、二頁大の一方に、あちら向きの妙齢の裸体美人を描いて(あちら向きだから、面《かお》は美しいか美しくないかわからないけれども、その姿から見て、美人といってもさしつかえなかろうと思われる)その左の一面に賛《さん》をして、「こちら向かんせ、雪の膚《はだえ》が見とうござんす」というようなたわごと[#「たわごと」に傍点]が書いてある。
その次には、一人の武骨な男が、得意になって三味線をひいていると、その前に、鬼が唐辛子《とうがらし》を持ちながら、しきりに涙を流しているところがある。何の意味だかわからないが、鬼の唐辛子を持っているところが奇抜でもあれば、おかしみもあると思いました。
その次には、猟師が熊狩をしているところがある。これも四条風の筆法で、前の後向き美人を描いたのと同一人の筆と見える。月の輪の大きな熊が、上からのしかかって来るのを、下にくぐって槍で突き上げるきわどい[#「きわどい」に傍点]瞬間を巧《たく》みに描いて、
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不入熊穴不獲熊親
[#ここで字下げ終わり]
と賛がしてある。その次には夜半堂の筆法で、軽妙に近い俳画
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