せん。
「では、せっかくの御好意を遠慮なく」
片手をのべて、熱い湯の湯呑を受取ると、グッと一口飲みました。この一口の湯が、兵馬の五臓六腑までしみ渡って、渇する者に水とか湯とかいう本文通り、一口の湯が全身心に反応しました。
禅家で点心《てんじん》というが、一片の食を投じて、霊肉の腐乱《ふらん》を済《すく》うという意味通りの役を、この一口の湯が、兵馬のすべてに向って与えたようです。
「ああ――」
と、甘露《かんろ》にしては少し熱いが、ほんとうに熱い甘露であったと、兵馬は、つづいて二口三口と飲んで息をつきました。
その間、今これを持って来た娘は、かいがいしく兵馬の後ろに廻って、兵馬が一旦、まくし上げておいた蒲団《ふとん》を、再び丁寧《ていねい》に敷き直した上に、
「これではお寒いでしょう」
と言って、唐紙《からかみ》をあけて次の間へ入ったと思うと、早くも、二枚ばかりの蒲団を持って来て、その一枚を以前の上へかけ増して、
「どうぞ、お休みあそばせ、無理をしてはお悪うございます、ただいま、お火を持って来て上げます、それから朝の御飯は、お粥《かゆ》をこしらえて差上げましょう」
そこで兵馬も、その好意を有難く受けて、
「どうも飛んだお世話になります、ではお言葉に甘えて、粥を少し、こしらえていただきましょうか、それに梅干の二つもあれば結構でございます」
と答えると、
「よろしうございます、この通りの山の中の冬籠《ふゆごも》りでございますから、お口に合うような物のあるはずはございませんが、何か見つけて参りましょう。よほどお疲れの御様子でございますから、御無理をなされずに、ゆっくりお休みあそばせ」
為めを思ってすすめるものですから、兵馬もその親切に、我《が》を張る勇もなく、
「それでは、御免を蒙《こうむ》るとして」
彼は再び上着をぬいで、寝床に入ろうとするのをあとにして、娘は出て行きました。
この娘が出て行ったあとで、兵馬は、親切な娘だという感じを催すことを、とめることができません。
それにしても、この宿の女中ではない、この宿の娘か知らん、どうも気分がそうでもないようだ。しからば、人に連れられて、この山の奥に冬籠りをすべく逗留《とうりゅう》している客のうちの一人か――
そうだろう、それに違いない。旅は相身互《あいみたが》いで、さいぜんの男の人が看病に来るというのを、女の方が看病にふさわしいから、好意で代って来たものに違いない。とにかく、感じのいい、気分の熟した娘だとは思いやっているが、兵馬は身の苦痛にまぎれて、その娘の面《かお》をよく見ておきませんでした。
宇津木兵馬が、この白骨の温泉へ入り込んで来たのは、偶然に似て偶然とはいえません。
中房《なかぶさ》から意外な女の人と道づれになって、その女を途中でさらわれてしまい、どうでもいいようなものだが、勃然《ぼつねん》として、思いあたって、義において見殺しはできないという心から、追いかけて一旦は松本へ出たが、それからハタと思案に余った念頭を暗示するものがあって、ついにこの白骨の温泉へ入り込んだのです。
そうでなくても兵馬は、中房あたりに行くより先に、この温泉へ、一文字に突出してみなければならぬはずではあったのです――というのは、甲州の月見寺で清澄の茂太郎に尋ねた時に、たしかにハッコツという呼び名は聞かされているのです。
ハッコツから一歩機転を働かせれば、当然シラホネになるのだから、さてはと、胸を打って、まっしぐらにこのところへ来て見るのが順序であるべきものを、あちらこちらに停滞漂浪していたのは、この機転を働かせるほどに白骨の温泉の名が、人の耳目に熟していなかったと見なければなりません。
まして、今、ここに来た娘は、あれは月見寺のお雪ちゃんです。
兵馬が、お雪ちゃんの世話になったのは、今に始まったことではない。また兵馬も、お雪ちゃんを強盗の危《あや》うきから救ってやったこともある浅からぬ因縁《いんねん》が、ここまでめぐり来たっているということを、おたがいにこの時は少しもさとりませんでした。
兵馬は、病気の苦痛で人の親切を受けても、その人柄までを、充分に見る余裕はなかったとはいえ、お雪ちゃんが気がつきそうなものだが、それとても、今時こんなところで、旧知の人を見ようとは想像以外であったのか、或いは兵馬そのものが、旅疲れでやつれ果て、見違えられていたか、とにかく、充分に因縁のある二人が、ここで、奇遇に驚いて、あっ! とも、おや! とも言わなかったことが不思議でした。
しかし、当然、約束しておいた仕事、火を持って来ることだの、お粥《かゆ》をこしらえることだの、矢継早《やつぎばや》に、この室を重ねて見舞わねばならぬはずになっていますから、今度見えた時こそ、二人の底が割れて、アッとしば
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