が描かれて、上に一茶調の俳句が題してある。
大体、そんなような戯画《ざれえ》と楽書《らくがき》で、ほとんど巻の大半がうずめられていたが、そのうちで兵馬が異様に感じたのは、ただ一つの女文字が所々にはさまれて、それは多くは歌が認《したた》められている。
歌のことは兵馬にはよくわからないが、手はなかなかよく書いてあると思いました。全くの素人《しろうと》では、なかなか色紙《しきし》、短冊《たんざく》に乗らないものだが、この女文字は板についていると感じました。
歌も一通り読んでみましたが、いずれも白骨温泉の生活を中心としたもので、山岳をたたえたものもあり、浴中の人事をうたったものもあり、長いのもあり、短いのもあるが、いずれも兵馬の感心するものばかりです。
そうして、どれも最近の墨の香《か》がするから、この夏の末に去った人ではない、現にここにいる人のうちの筆のすさびに相違ない、とすればこの女の人は、さいぜん親切に自分を介抱してくれた娘さんだ、あの人に違いない。
宿の娘ではないし、誰か連れがあって冬籠《ふゆごも》りをする逗留《とうりゅう》の客に違いない。その連れはいずれも相当の教養もあり、風流も解する人だ。旅客で、悪客と隣するのと、好客と泊り合わせるのとは、非常な幸と不幸とであると、兵馬はそんな感じを受けながら見ると、女文字の和歌には、どれにも「雪」という名がしるしてあります。
六
同じ日の夕方、机竜之助は、炬燵《こたつ》を前にして、端然と腕組みをして首低《うなだ》れていました。
この時は、九曜の紋のついた黒の衣裳で、髪かたちも、さまで乱れてはいず、膝は炬燵の中へ入れないで、さながら、お行儀よくお膳に向った時のような姿勢で坐っています。
尺八は少し離れたところの机の上にあって、膝のわきには二本の刀が、これも瀞《とろ》につながれた筏《いかだ》のようにおだやかに、一室の畳の上に游弋《ゆうよく》している。
このごろは、お雪も、久助も、あまりこの室へはおとずれないらしい。
それは、この室の主人がそれを好まないせいか、或いは二人が、なるべくこの人に遠のいていた方がいいと感じたものか、どうかすると、どちらも、その存在を忘れてしまっているのではないかと疑われることさえあります。
それでも、一日に一度は思い出したように二人のうちの誰かが、おとずれて見ると、どこへ行ったか姿が見えないことがあります。
それでも気にしないでいると、いつのまにか、おだやかに戻っていて、やがて尺八の音《ね》がしだしたりするものだから安心します。
お雪と、久助にさえ、存在を忘れられるくらいだから、まして同宿のほかのものが、聞きとがめたり、見とがめたりすることもなく、ただ、例の尺八の時だけが問題になるのだが、それだって、この家の一角に左様な人ありて、左様の曲を奏しているとは気がつかず、ただ、その音色《ねいろ》だけが問題になって、主《ぬし》はあらぬ方へ持って行って、かたづけられてしまうことが多いのであります。
存在を忘れられるということは、死に近づいたことを意味するか、そうでなければ、生に充実しきって、たたいても、動かしても、音のする余地がない時のことでしょう。
ひとり、この男のみは、死でもなく、生でもなく、存在の間《かん》に迷溺《めいでき》していること、昨日も、今日も、変りがありません。
申し忘れたが、この一室にも、やはり角行燈《かくあんどん》の一基が、炬燵《こたつ》の彼方《かなた》に物わびしく控えていて、何か話しかければ物を言いたそうに、話しかけないでいれば、先方から物を言いたそうに、しょんぼりと控えていることであります。
尋常ならば、その物欲しげな、ぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]とあいた口へ火が入って、待ってましたといわぬばかり、ぽっかりと明るくなる時分なのですが、自分の存在にさえ無頓着なこの室の主人が、行燈の存在などに、かまっていられるはずがありません。
冷遇せられたる行燈――これもまた天下にみじめ[#「みじめ」に傍点]なものの一つであります。清少納言は、すさまじきものの中に「火おこさぬ火桶《ひおけ》」を数えているが、夕暮になって火の入らぬ行燈は、それよりも一層、すさまじいものかも知れません。
その、すさまじい行燈でさえが、無聊《ぶりょう》と、冷遇と、閑却と、無視との間に、何か一応の怨言《うらみごと》をさしはさんでみようとして、それで何を恐れてか、それを言い煩《わずろ》うているほどに荒涼なこの一室。つまり、本来ならば、行燈そのものが化けて出そうなこの夕暮に、御当物《ごとうぶつ》が化けそこのうて、身動きもできないで、しょんぼりとすくんでいるこの笑止さが、話にも、絵にもならないのです。
室の主人は、今、腕組みをしている手
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