縦覧を惜しまれている東南部、針木、夜立、鹿島槍、大黒の山々、峠でさえも、東北の方、戸隠、妙高、黒姫等の諸山までも、おのおのその個性を備えて、呼べば答えんばかりにではない、呼ばないのに、千山|轡《くつわ》を並べ、万峰肩を連ねて、盛んなる堂々めぐりをはじめました。
 天際と、地軸の間を表に真黒な沈黙、裏に烈々たる火炎を抱いて動き出したそのめざましさに、二人は驚動しました。
「ああ、山という山が、みんな集まって来るではないか」
「山がみんな集まって、何をするのでしょう」
「何をしでかすかわからない」
「あれ、富士山が――大群山《おおむれやま》が、丹沢山が、蛭《ひる》ヶ峰《みね》が、塔ヶ岳が、相模の大山《おおやま》――あれで山は無くなりますのに――まあ、イヤじゃありませんか、大菩薩峠までが出て来ましたよ」
「大菩薩峠が……」
「そらごらんなさい、相模の大山から、ちょっと、こっちの方、武蔵の三《み》ツ峰山《みねさん》までの間に、ちょっと凹《くぼ》んだところが見えましょう、あれが大菩薩峠の道でなくて何でしょう」
「そんなところまで、よくお前にはわかるねえ」
「わからなくてどうしましょう、わたしは、あの道を通ったことがございますもの」
「あの道をかい、大菩薩峠の路をかい」
「ええ」
「それはいつのことだ」
「そうですねえ、まだ、あの時から五年にはなりませんよ」
「どうも不思議だ」
 竜之助の頭が暗くなった時、天地もようやく暗くなりました。
 その暗い中に、巡礼の笠が、はっきりと浮ぶ。その子はほがらかな声で、
「暗くなりましたねえ、帰らなければなりません。どちらの道を帰りましょうか。峰伝いに杓子ヶ岳へ参りましょうか、そうして、日本のうちで、いちばん高いところにあるという岳の湯の天然風呂へ参りましょうか。そうでなければ、小蓮華《しょうれんげ》、大日《だいにち》ヶ岳《たけ》を通って、大池へ下りましょうか、大池から蓮華温泉へ出て一晩泊りましょうか。或いはまた、真直ぐに大町まで出たものでしょうか。それとも、あなたのお好きなあの剣山まで、立山連峰の道を一息に走ってみましょうか――」
 そう言われても、帰る心になれませんでした。
 天地が全く暗く、展望が全く奪われてしまっても、なお、ここに立つこと久しければ、再び夜の明ける時が無いではない――そうそう、今日は見なかった日の出が明日は見られるはず。

         十六

 その晩「鈴慕」を、宇津木兵馬は、自分の座敷で「碁経」を読みながら聞いておりました。
「碁経」は、宿に有合せのものを旅のつれづれに、ひろげて見ただけのものですが、それでも、多少下地があるものですから、見て行くうちに興をひかれて、なるほど、ここはこうして打つものかな、こんな手もあったものか知らん――と注意して行って、なるほど、定石《じょうせき》を打つと二三目は弱くなるそうだが、弱くなるのが本当だ。
 自分も子供時分から器用で少しはやるが、本当にやろうとすれば、全部を白紙にして出直さなけりゃならん。無法に強いのは、強いのにならぬ。無法の勝ちは、勝っても負け――どの道も同じことだ。そんなふうに感心しながら、鈴慕を聞き流してしまいました。
 尺八のことは、なおさら分らないから、いま何を吹いたのだか、当りもつかず、曲そのものに気を留めて聞こうとはしませんでした。それで、聞き終ると共に一種の哀愁を覚えて、「碁経」の巻を閉じました。
 そこでなんとなく、座敷の外へ出てみたいと思ったのは、虫のせいかも知れません。
 今宵は、前の晩のように間毎間毎を、探索の眼を以てたずねて廻ろうというのでもありません。
 ただなんとなく、外へ出てみたくなったので、出てみる時に、おのずから足が三階の松の間へ向いました。
 あの娘のことが、気になっているのだなと、兵馬は自分ながら気がつきました。
 なんとなく、足がそちらへ向いて、明日立つとすれば今晩限りだ、あの娘のところへ行って、一応の暇《いとま》を告げてみたいという気になったのは、自然かも知れません。
 そうして静かに兵馬は、廊下を歩んで行ったが、二階のあの角の座敷に行くには、一度、三階へ上って、それから下った方が近路だと気がつくと、そのまま三階へ上ってしまいました。
 しかし、まだ名乗り合って近づきもなにもしないのに、突然こちらから訪問するのも無躾《ぶしつけ》ではないか――なあに、先方は来る早々から、あんなに親切にしてくれたのだから、その親切に対しても、一応のお礼は述べに行かなけりゃならん。
 そんなふうに、自己弁解をして、三階の廊下を歩んで行くと、行手で、ふっと人の足音がしたものですから、兵馬は戸袋の隅に身をもたせかけて窺《うかが》いました。
 誰だろう――暗いところで、音のした方向を見ると、人が一人、すっと出て来
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