て、向うの降り口を鍵の手に廻り、さっさと二階へ下りて行くのを認めます。しかも、その人が、女であることが、ハッキリと兵馬の夜目にうつりました。
 女でありさえすれば、それはこの全宿中に一人しかあるべきはずはない。自分が今たずねてみようかしらと心がまえしているところのあの娘――
 そこで兵馬は、ハテと胸をつかれました。
 この暗いところから、あの娘はひとり、三階まで何しに来たのだろう。
 下へおりて行くならば、どこへ行こうとも順だが、間違って上へのぼるはずはないのだ。それとも、三階へ座敷替えでもしたのか。
 だが三階のどこにも火の気のありそうなところは見えない。火の気が無ければ、人の気が無いのだ。その火の気も無い座敷の一つを、あの娘がおとずれたもののようにしか思えないのが、おかしいではないか。
 その不審は不審として置いて、兵馬は同じところから二階へ下り、案内知った東南の隅の間に近づいて見ると、ここは明りがしていますから、障子へ手をかけて、
「御免下さい」
とたずねてみたけれども、返事がありません。
「お不在ですか」
 それでも返事がありませんけれど、思いきってその障子をあけて見ましたが、たぶん、いま帰ったはずの娘もいなければ、同行の久助の姿も見えません。

 その翌朝、宇津木兵馬は、帰るとも、とどまるとも決心がつかずにいると、どうも様子が変だから、尋ねてみると、仏頂寺と、丸山は、今早朝に結束いかめしく出立してしまったということです。
 おお、そうしてみれば、こちらが結句、出し抜かれて幸いというものだ。
 ちょうど、やり過ごした意味になるから、少し時を置いて自分も出立しよう――彼等は、どちらを向いて行ったか知れないが、多分、松本方面だろう。すれば自分は飛騨《ひだ》の平湯《ひらゆ》をめざして行こうかな。そうでもした方がよい。
 座敷に帰って、なにくれと出立の用意をしてみたが、こうなると、そうだ早く帰るがいい、帰るがいい、というようなささやきと、とてものことに、もう少しいてはどうだ、もう一応駄目を押してみてはどうだ、というような勧告が、どこからともなく聞えるようにも思う。そのいずれも無意味だが、帰るべきものとすれば一刻も早い方がよい。
 出立にさきだって、一度挨拶だけをして行きたいと心がけたあの娘は、今日は姿さえ見せぬ。
 ぜひなく、宇津木兵馬は、孤身漂零としてこの白骨の温泉を立ち出でました。
 例の鐙小屋《あぶみごや》の神主をも一応おとずれて行こうと、無名沼《ななしぬま》のほとりに来て見れば、なるほど、小屋はあるが人が無い。多分、山上へ修行にでも行って留守なのだろう。
 逢えない時には逢えないものだ――兵馬は、軽いあきらめを以て、かねて教えられていた道筋を、飛騨の平湯の方をめざして、山渓の間に没入してしまいました。
 来たる時に、兵馬を誘引したらしい「鈴慕」の曲も、帰る時は音沙汰《おとさた》がありません。

 こうして二ツの星が、逢わんとして、閾《しきい》の内と外まで引寄せられて、また相距《あいさ》ること千万里。
 しかもそのいずれも、自らきわどい運命を知ることができませんでした。
 ことに兵馬は幾度か、こんな目に逢わされつけているが、自分がそれを知らないだけに、神様のいたずらに腹を立てたこともなければ、運命の数奇に頓悟したこともない。
 多分、それは神様の方で、出直せ、出直せとおっしゃっているのかも知れない。求めよ、さらば与えられんとはいうが、求めて与えられないのは、求め方が間違っているのかも知れぬ。
 これは単なる離合のあやつりではあるまい。
 求めんとして与えられず、掌《て》の中へ入れてもらいながら、それを受取ることを知らず、千里の遠くを見ながら、寸前の暗黒を如何《いかん》ともすることのできない悲劇、喜劇は、この人間の世に無数であるのみならず、天上においても、無辺際に繰返されている。

 この場合、白骨温泉に落合った二ツの星が、どちらが惑星《わくせい》で、どちらが彗星《すいせい》だか知らないが、二つ共に、一定の軌道をめぐっていないことだけはたしかのようです。
 従来、五年半の周期で太陽をめぐっていたレキセル彗星が、千七百七十九年、木星に接近したために、どうした変動か行方不明《ゆくえふめい》になって、今日まで出て来ないということです。
 これに反してブルック彗星は、同じ星に接近したために、従来二十七年の周期が七年に短縮されてしまったということです。
 地球人は、とうにハリー彗星と衝突していたはずだが、その衝突の酣《たけな》わなる時も、われわれは何の異状なく、今、現に大衝突をしつつあるのだという自覚にも、現象にも、触るることなしに、無事安穏に通過してしまいました。
 昭和三年七月三日(西暦千九百二十八年)江戸川|大曲《おおまがり》
前へ 次へ
全40ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング