たと吸い寄せられてしまいました。
 一旦、少しばかりハニかんで、人間味を見せたお雪が、ここで以前の、超現実の説明者の地位に戻りました。
「昔、昔、那須の国造《くにつこ》が、八溝山《やつみぞさん》の八狭《やざま》の大蛇《おろち》を退治しなければならないために、それには、どうしても駒ヶ岳の天津速駒《あまつはやごま》に乗り、乗鞍ヶ岳から天安鞍《あめのやすくら》を、槍ヶ岳から天日矛《あめのひほこ》を、立山から天広楯《あめのひろたて》を借受けなければならないと、はるばるこの信濃の国まで、たずねて参りました……」
 お雪は、ここまで語りつづけた時に、自分が語り聞かせようとしている当の人が、自分の説明を、少しも聞いていないことをさとりました。
 自分の説明を聞いていないのは、自分の言うところに注意するよりは以上に、注意すべき何物にか心を奪われているのでしょう。
 そこで、無益の説明を中止して、その人の凝立《ぎょうりつ》して、眼を吸い寄せられているところを、お雪が安からぬ色で認めて、
「そんなに、あの山がお気に入りましたか」
 でも、返事がありません。
「あれは越中の立山の剣山《つるぎざん》でございますよ、まだ、あのお山の頂《いただき》へは、誰一人も登った者は無いそうでございます」
「そうかなあ」
「槍ヶ岳は、あの通り、槍の穂先のように鋭くそそり立っておりますが、それでも、登れば登れるそうでございます、立山の剣山ばかりは、誰も登ったものは無し、登ろうとする者さえ無いと聞きました。よし、登ろうとする者があっても、どちらから見ても、あの通りの断崖絶壁で、手脚の着けどころが無いのでございます。そうして、じっと見ているうちに身の毛が立って、怖《こわ》くなって、さすが向う見ずの山登りも、断念して帰るのだそうでございます……昔の弘法大師さえも、千足の草鞋《わらじ》を用意なすって、それを穿《は》ききってもまだ登れなかったのが、あの山だそうでございます」
「なるほど、そうかも知れない……でも、今、誰か登っているようだぜ」
「御冗談《ごじょうだん》でしょう、よしんば登る人がありましても、ここからそれが見えるものですか」
「ところが、この眼で見える――おれの眼はどうかしているのか知らん、ああ、今日は何もかも見え過ぎるほど、見える」
「あなたにお見えになるほどのものが、わたしに見えないはずはございますまい」
 お雪は、竜之助が棒の如く立って、凝視《ぎょうし》している、その越中の剣《つるぎ》ヶ岳《たけ》の半面に向って、同じように、凝視の眼を立てました。
「見えるだろう、そら、あの頂上に」
「何も見えません」
「おかしいな、よく見てごらん、頂上に錫杖《しゃくじょう》が立っている」
「え、錫杖が、あのお山の頂上に?」
「そうさ、ただ一本の錫杖が、絶頂の岩石の間に、突き立ててあるのが、お前には見えないのかなあ」
「少しも見えません、また見えるはずもございませんもの」
「だから、わしの眼が今日はどうかしているのだろう、こっちの眼では、ありありとわかるものが、お前の眼に少しも見えないとは……だが確かに錫杖が一本、あの剣ヶ岳の上に立っている。錫杖が存する上は、それを立てた人間がなければなるまい。人間がそれを立てたとすれば、古来、人跡至らずといわれた伝説は嘘だ……」
 しかしながら、これは物争いになりませんでした。一方が見えるというものを、一方が全く見えないというのですから、議論になりません。
「ああ、お月様が出ました、新月が……何という、いじらしい光でしょう。ですけれども、また触れば切れそうなあの鋭さと、冷たさ。わたしは、お月様のうちで、あの二日月がいちばん好きでございます」
 お雪の眼は、山から月にうつりました。
 なるほど、立山の連峰から、加賀の白山へつづくと覚しいところに、新月の影があります。
 金色《こんじき》の、聖者の最期《さいご》を彩る荘厳《そうごん》に沈んだ山と、空との境目が、その金色の荘厳を失って、橙《だいだい》の黄なるに変りました。
 その間に繊々《せんせん》としてかかる新月の美しさ。そうして、微かなるその新月の光に向いた山の峰が、涙の露を糸に引いたようなカーヴをかけているいじらしさ。
 だが、その美しさも、いじらしさも、束《つか》の間《ま》で、橙の黄なる空の色が、白蝋《はくろう》の白きに変る時分に、山々は一様に黒くなりました。
 一様に黒くはなったけれども、少しもその個性を失うのではない。槍は槍のように、穂高は穂高のように、乗鞍は乗鞍のように、駒ヶ岳は駒ヶ岳のように、焼ヶ岳は焼ヶ岳のように、赤石の連脈は赤石の連脈のように、八ヶ岳の一族は八ヶ岳の一族のように、富士は問題の外であるが、越中の立山は立山のように、加賀の白山は加賀の白山のように――展望において、やや
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