くば》ヶ岳《たけ》のお花畑でございます、まあ、この美しいとも何とも言いようのない花の色をごらんなさい」
 後ろから呼ぶ声で、顧みると、それはお雪です。花の色を見る前に、竜之助はお雪の姿を見ないわけにはゆきません。
 この娘の姿といっても、面《かお》といっても、かねて潜在の実印象が少しもあるのではありませんが、竜之助は、直ちにその娘が、お雪だとわかりました。
 それは、声だけでも無論わかるはずですが、この時は、面《おも》だち、その姿、それがお雪でなければならないと思いました。
 黒い髪の毛を洗い髪にして、白い面《おもて》に愛嬌《あいきょう》をたたえている、その無邪気にして、魅力のある面《かお》が、お雪ちゃんでなければならないと思いました。
 ことにその着物をごらんなさい。自分の白衣《びゃくえ》も、鶴の羽のような白いかがやきに見えますが、お雪ちゃんのその衣裳は、百練の絹と言おうか、天人の羽衣《はごろも》といおうか、何とも言いようのない白無垢《しろむく》の振袖で、白無垢と見ていると、裾模様のように紫の輪廓の雪輪《ゆきわ》が、いくつもいくつもその中から、むら雲のように湧いて出るのを見受けます。
「まあ、この花の色をごらんなさい、ありとあらゆる花が、ここに咲いているではございませんか。色という色がみんなここにこぼれているようでございます。これは百合に似た花でございますが、紫の濃いところが違います。こちらをごらんなさい、花も、葉も、枝も、すっかり白天鵞絨《しろびろうど》ではございませんか。これはまあ、真黄色《まっきいろ》! こんな大きな梅鉢草《うめばちそう》! これは石楠花《しゃくなげ》と躑躅《つつじ》の精かも知れません。白蓮華《びゃくれんげ》……とでも申しましょうか、この白さの深いこと、可愛いじゃありませんか。この十坪ばかりのところは、すっかり桜草の一族で固めて、他人を入れまいとしておりますよ。どれを見ても、これを見ても、色のよいこと――それもそのはずです、この高いところで半年の間、この真白な雪で研《みが》かれたんですもの、下界の花とは色の深さが違います、強さが違います、位も違うのは仕方がありません」
 空間のめざましさに、眼をさました竜之助は、地上の美観にも目を奪われないわけにはゆきません。なるほど、これがお花畑。人間の手で作れない、雪と、氷と、高さとの力で作られた、天然の花の色。
「これが深山薄雪《みやまうすゆき》っていうんでしょう」
 お雪はその一つを摘《つ》み取って、自分の唇につけながら、
「この信濃の国のうちでも、お花畑のいちばん美しい山は白馬ヶ岳だそうでございます、それはいちばん北の方にあるから雪が多く、雪が多いから地面にうるおいが出て、うるおいがあるから、こうした植物が好んで棲《す》むのだと、山の案内の方が教えてくれました。全くその通りと思いますわ。あなたは久しく物の色というものをごらんになりませんね、ですから、しっかりとこの深い色、汚れのない色をごらんあそばせ、そうして、花の名もよく覚えていて下さいな、深山薄雪といって、わたしの名と同じことなんです」
 その花を、竜之助の眼の先につきつけました。
 真正に、清浄な紫の色、この色が下界の花には無いと、竜之助も思いました。
「あれ、蝶が……」
とお雪は山吹のような金色の花模様の中に、ヒラヒラと舞う白い蝶を捉《とら》えようとして、浅瀬に裳《も》をとられたように引返し、
「深山白蝶《みやまはくちょう》というのが、あれかも知れません」
 信濃ギンバイの黄金の中に、深山白蝶の色。
 蝶を追うて、二人は静かに上りにかかると、花をいくつも摘んで胸にかかえたお雪が、行手の山を指さして、
「白馬の頂《いただき》が見えました」
「なるほど」
 その山嶺を仰ぎ見ますと、真白な雪が、身ぶるいしているのを認めました。
「裏の国では、あれを大蓮華山《だいれんげさん》と申します、こちらではシロウマと申します、それを、今では誰が言いならわしたか、ハクバヶ岳《たけ》が通り名になってしまいました」
 お花畑を出でると、雪の渓間《たにま》がある、林泉がある、見慣れない獣《けもの》が、きょとんとして、こちらを向いている。
「あれが羚羊《かもしか》です、あの獣は赤いものが好きで、赤いものさえ見せれば半日でも見ています」
 お雪は帯の間から、これも目のさめるほどな紅絹《もみ》の布片《ぬのきれ》を取り出して、その獣に向って振ると、眼をクルクルして、いつまでもそれを見ている。
「ああして、これを恐れないのは、人を信じているからでしょう、あぶないものですね」
 少し進んで行くと、偃松《はいまつ》の間から、のそのそと一羽の鳥が出て来る。
「ごらんなさい、雷鳥が出て来ましたよ、あの鳥もまた人を怖れません」
 やがて頂上に近くな
前へ 次へ
全40ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング