がら、暗い座敷へ入って、まず燈火をつけようとの試みもしないで、少しばかり畳ざわりの音がしたかと思うと、それっきり静かで、何も聞えません。
 暫くあって、息をしずめたお雪が、哀求するように言いました、
「ねえ、先生、当分、あの尺八はお吹きにならないようになさいましな」
「それは、どうして」
「でも、なんだか、気味の悪い人が来ていますもの」
「そうだ、このごろになって誰か来たようだが、なにかい、どんな人だい」
「どうも何だか、人を探しに来たような人たちですから御用心なさいませ、その御用心のために、笛はお吹きにならない方がよかろうと思います、そうして、わたしなんぞも、なるべく姿を見られないようにしていようと思いました」
「なるほど、いまごろになって、ここへ来るような奴は怪しいね」
「それでも、明日はお帰りなさるような模様でございます」
「では、その連中の帰るまで、笛を吹くことはやめにしようかな」
「そうなさいまし……それから先生、昨晩は夢をごらんになりましたね」
「夢なんぞは毎晩のように見るよ、昨晩に限ったことはありません。そら、明るい目で物が見えないだろう、だから、物を見ないで、夢を見るのが本職のようなものさ」
「そうおっしゃればそうかも知れませんねえ。いったい、どんな夢をごらんなさるの」
「どんな夢といって、夢のことだから、とりとまりはないのさ。けれども不思議だな、夢を見ているうちだけが、人間らしくなるよ」
「ようござんすねえ、沢山よい夢をごらんなさいまし」
「よい夢ばかりは見ておられない、見たくもない夢もずいぶん見るけれど、どうも夢のことだから、えりごのみをするわけにはゆかないのさ」
「そうですねえ、夢ばっかりは、見たいと思ってもいい夢が見られず、見まいとしても、悪い夢を見たがるものですから……でも、先生、やっぱり、心に無いことは、夢にも見ませんのねえ。わたしもこのごろは、変った夢を見るようになりました」
と前置をしてお雪が、自分の夢を次の如く語り出でました。
「わたしのこのごろ見る夢は、怖い夢ではございません、イヤな夢というのでもございません。それは怖い夢も、イヤな夢も、ずいぶん見ないことはありませんが、このごろは、山の夢を見ることが多いんでございますよ。高い山の夢ばかり見るような癖がついたのかも知れません……それというのは、ここでは皆さんが、山の話ばかりなさるから、それで、わたしの夢もついつい、山のことになってしまうんじゃないかと思います。けれども怖い夢や、イヤな夢を見るより、山の夢を見る方が、どのくらい楽しいか知れません。それは山へ登りたいと思いながら、登れないものですから、よけい、夢になりたがるんでしょうと思います――わたしの見た山の夢を、話して上げましょうか」

 山の話が讖《しん》をなしたものか、お雪の雄弁――熱を以て語る山のあこがれが、竜之助の頭脳のうちに絵のような印象を植えつけたものか、その夜、竜之助は、雪を頂く高峰のめぐるある地点に立つところの自分を発見しました。
 銀のような山上の雪のまばゆきに映りあって、その空の碧《みどり》のまたなんというめざましいことだろう。人の魂を吸いこむほどの碧の色、こうもまあ冴《さ》えた色があり得るものかと思いました。
 有らん限りの自分の視力を払って、竜之助は高峰の山々をながめました。
 その山々の名は先刻、いちいちお雪から指さして教えられたはずであったが、今は茫洋として覚えておりません。名の記憶は茫洋に帰してしまったが、自分の放つ視力のめざましさは、疑おうとしても、疑うわけにはゆきません。
 遠近も、高低も、カーブも、スロープも、心ゆくばかり明快にうつるのみではない、雪に照り映《は》えている自分の一枚の白衣《びゃくえ》が、鶴の羽のようにかがやくのを認めました。
 どうして、この時、一枚の白衣で寒くないのだろう。寒くないのみならず、何ともいえない軽快なすがすがしさ。自分の四肢五体までがすっかり、この鶴の羽のように、さえ返っているのではないかと疑いました。
 彼が眼の不自由を感ずるのは、その醒《さ》めている時だけであります。
 多くの人が日の光のめぐみに浴する時こそ、彼は肉眼も、心も、全くの暗黒で、世の人が光を隠されて暗黒の眠りにつく時に、彼に自由の天地があり、どうかすると、赫々《かくかく》たる光に眩惑《げんわく》されることもある。
 しかしながら、この夜の自由は、その以前の夜の自由とは、少しく性質を異にしてきたようです。何よりもまず夢の世界に立つ時、未《いま》だひとたびも、自分の視力を疑ったことのないのが幸いといえば幸いでしょう。
 とはいえ、雪をいただく大山脈を長城にして、めざましい空の碧《みどり》の色を、こうもあざやかに見たのは、今がそのはじめです。
「ここが有名な白馬《は
前へ 次へ
全40ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング