痛みも、痒《かゆ》みも、残るのではございませんが、人様がそうおっしゃって、私を慰めて下さるので気がつきます。着物の上からまで、そんな創痕《きずあと》が見えるんでございますか知ら」
 弁信が白い布を懐《ふとこ》ろへ入れては出し、入れては出しして見せる。それが、その度毎に血に染まっているのです。弁信自身は、拭うても、拭うても、拭いきれぬ血を拭いているとは思わないでしょうが、見ているピグミーは、眼を皿のようにして、そのおびただしい血痕が、弁信のいずれの肢体から滲《し》み出でるのだか、驚惑と、興味と、恐怖とに駆《か》られて見ていたが、やがて気の毒そうに、
「弁信さん、お前もかなり疲れているから、お休みなさい、おいらはこれから出かけます」
「そうですか、お前さん、これからどこへ行きます」
「そうさね、どこといってべつだん当てはないのだが、お前のいま言ったその信濃の国の、白骨《しらほね》というところへでも行ってみようかと思っているのさ」
「あ、そうですか、白骨へ行きますか。白骨へ行きましたら、皆さんによろしく」
「それじゃお前、弁信さん、横になってゆっくりお休み、おいらはこれで失礼するから」
といってピグミーは、軽快に立ち上り、またも籠目形の鉄瓶のつるに足をかけて、自在竹をスルスルとのぼって、天井の簀《す》の間に隠れてしまいました。
 弁信が熊の敷皮の上に横になったのは、そのあとのことで、横になると肱枕《ひじまくら》にスヤスヤと寝入ってしまいました。

         三

 同じ夜の、同じ時刻のことです。
 ところは、信濃の国の、白骨の温泉への山路を急ぐ一人の旅人がありました。
 外は満天の月光でありまして、地は一面の雪であります。
 白骨への嶮山難路を、今の時候に、今の時刻に、しかもひとり旅で辿《たど》るということは、全く思い設けぬことで、何か非常の用向があるか、そうでなければ、ついつい道に迷って、松本平へ帰ることもできないし、そうかといって飛騨《ひだ》の国へ出ようというのは途方もないことです。
 弁信に向ってピグミーが、これから白骨へ出かけてみると言うにはいったが、ここに現われたのは、いくら遠目に見ても、そのピグミーでないことは、姿と、形と、足どりを見さえすれば、誰にもわかることです。
 この時代と、年代とに、雪の白骨道を夜歩くということは、全く途方もない現象というべきで、その人柄と、用向とも、全く想像のほかと言わなければならないが――この旅人《りょじん》には相当のあたりがついていると見えて、さのみ臆する模様もなく、道に迷うている者の姿とも見えず、ほぼ白骨温泉場の道をたどりたどって、ともかくも、梨ノ木平のあたりを無事に過ぎて、つい[#「つい」に傍点]通しの渓流のところまで、さまで深くない雪を踏み分けて、歩み来ったものです。
 そうして、つい[#「つい」に傍点]通しの橋上にかかる時分になって、右しようか、左しようかと、ちょっと思案に立ちどまった時、ふと耳にさわる物の音を聞きました。
 それが例の鈴慕の曲なのです――だが、この旅人は、虚空がどうして、鈴慕がどうしてと、聞きわけるほどの耳を持合わせずに、ただ、笛が鳴る、短笛だ――意外にして意外でないと、足を留《とど》めて、耳をすましただけのものであります。
 この旅人というのは、まぎれもなき宇津木兵馬であります。
 こうして宇津木兵馬は、鈴慕の笛の音に引かされて、白骨の温泉の湯元まで、知らず識《し》らず引寄せられて来ました。
 しかし、兵馬がこの温泉場近いところまで来た時分には、笛の音は全く絶えておりました。
 その時分、温泉宿の中では、池田良斎と、北原賢次とが、炉辺《ろへん》で面《かお》を見合わせ、
「やっぱり鈴慕ですよ、ですがあの鈴慕は、琴古の鈴慕とは少し違うようです」
と北原賢次がまず言いました。北原は、相当に尺八についてのたしなみ[#「たしなみ」に傍点]があると見なければなりません。
「なるほど、今のが鈴慕ですか」
 良斎が言いました。これを以て見れば、良斎の方は、尺八の音について、さまでの造詣《ぞうけい》はないものと見てよろしいでしょう。
「鈴慕には違いないと思いますが、少し手が違います、琴古の手とは手が違うが、音そのものに思わず引きつけられました」
「尺八のわからない拙者も、なんだか、こう聞いているうちに、遠いところへ持って行かれるような気分で、人生の物の哀れとか、悲壮な超人の心の痛みとかいうものに誘われて、縹渺《ひょうびょう》とした心持にされていたのが不思議です。いったい誰だい、あれを吹いていたのは」
「左様、村田寛一ではありませんか」
「いいえ、村田ではない、村田は浄瑠璃《じょうるり》はお天狗だが、尺八の方は、あれまではやれまい」
「では市川君」
「市川は、喜多流の仕舞《
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