のを如何《いかん》ともすることができません。
お雪は、そのことで幻覚に陥っているうちに、つい、いい心持になりました。
いい心持になって、炬燵にいるうちに、なんとなく泣きたい気持になりました。
ここで思う存分泣いてみたいような気になっていると、隣室の幻覚のことも耳には入らず、他人の座敷を、わが物顔に、帰ることを忘れているのも気がつかず、なんとなしに、思う存分、甘い涙にひたって、泣けるだけ泣いてみたいような気分で、炬燵に頬をうずめてしまいました。
ですから、隣室の幻覚は、もうその時分に消え失せて、二人の高話も、ふっとやみ、その中に妙にからまった女の音もきれいに消えてしまい、今までの喧噪《けんそう》が、あるかなきかの世界に変ってしまったことも、とんと気がつかずに、夢のようにしていると、不意に背後に、衣摺《きぬず》れの音がしたかと思うと、早くも、自分の両の眼を、後ろから目かくしをしてしまったものがあります。
「あれ、まあ、どなたですか」
お雪は全く驚き呆《あき》れてしまいました。
今までこの宿中で、かなり誰にも親しくしていたが、その親しみというものは、おのずから限界というものがあって、未《いま》だかつて、こうまで無作法になれ親しまれたものはないはずです。
後ろから不意に目かくしをして、当人の相当に驚き呆れるのを見すました上で、当ててごらんとかなんとかいったり、いわなかったりして後、パーッと蓋《ふた》をあけて納まりをつける新しくもない悪戯《いたずら》。子供の時分なら知らぬこと、無邪気にしても、あんまり人をばかにしている。むしろ乱暴でもあり、無礼でもある。お雪の驚き呆《あき》れて狼狽《ろうばい》するのみならず、その狼狽に、憤慨の勢いを加えたのもぜひがないことです。
「ごじょうだんをなすってはいけません」
目をおさえられながら、それはむしろ叱責するような声でありましたが、後ろの人はなんにも言わず、まして手を緩《ゆる》めようとも、放そうともしません。多分、面《おもて》には舌を吐いて、ニヤニヤ笑っていることでしょう。
「お放し下さい」
お雪は烈しく首を振りましたけれど、その押えている手というのが、やさしいいたずらでやみそうなやさしい手ではなく、革のように硬《かた》い、大きな掌で、そのくせ、死人のように冷たい手でありました。
「ほんとに、どなたですか、ごじょうだんをあそばしてはいけません、どうぞお放し下さい」
お雪には、その押えられた手の主が誰であるか、見当がつかないらしい。
ここには多くの男性がいる。否、自分一人を除いては、すべては男性であって、そのうちにはかなり異種類の人が雑居しているのだから、そのうちの誰の手と見当のつけようのないのもぜひがないでしょう。
しかしながら、池田良斎の一行の人たちの中には、かりにもこんな無作法な人はひとりも無い。留守番や、猟師たちの人は、質朴な山気質《やまかたぎ》の人たちで、自分たちに一目も二目もおいて、敬意を表していようとも、こんな無作法を働く人はひとりもない。
当惑の限りを尽したお雪は、大きな声で叫びを立てて、救いを求めようかとさえ思いました。
しかし当座のいたずらでするものを、そうまでするも、たしなみがなさ過ぎるように思って我慢をし、
「どうぞお放し下さい」
「は、は、は、は」
と、はじめて高笑いしたが、手はまだ放そうとしないから、
「お放し下さらなければ、人を呼んで助けていただきますよ」
「は、は、は、は、誰だかわかりますか」
その声は太い声でしたが、それでもまだ思いあてることができない。
「わかりません――どうぞ、お放し下さいまし、ね」
「は、は、は、驚きましたか」
ここに至って手を放して、突き出した面《かお》を見ると、それは問題の仏頂寺弥助でありました。
お雪は、仏頂寺の面を見てゾッとしました。
もう少しおきゃんな子であったら、いきなり仏頂寺の面《つら》をハリ飛ばしたかも知れません。寛容なお雪にしては珍しいほど、憎悪の念が、この時にこみ上げて来ましたが、その次には、ほとんど座にたまらぬほど、恐怖の念さえ加わってきましたものですから、
「どうも失礼しました、御免下さいまし」
と自分がわびて、火のしを持って立とうとするのを、仏頂寺が、
「まあ、よいではないか、取って食おうとも言やしませんよ」
それでもお雪は、取って食われるより怖ろしくなったが、幸いなことに、その時、廊下で足音がしたのは多分、この部屋のあるじ、宇津木兵馬が立戻って来たのでしょう――そのすきを見てお雪は、むしゃくしゃにこの座敷を飛び出してしまいました。
仏頂寺弥助は、その時、もうすっかり旅の仕度《したく》をしておりました。
お雪が逃げ出したあとへ、入違いに入って来た宇津木兵馬を見て、
「宇津木、さあ
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