出立しよう」
「おや、もう帰るのか」
「こんなところに、いつまで愚図愚図していても仕方があるまい、立つときまったら早い方がいい」
「それでも、あんまりあわただしい」
「そのうちに大雪でもあると、おっくうだからな、一時《いっとき》でも早い方がよろしい」
「うむ、それにしても明朝でよかろうではないか、今晩一夜を明かして、明朝早立ちとしたらどんなものか、拙者の方にも、これでまだ相当に仕度というものがある」
「われわれは、その今晩一夜がいやなのだ、今のうちに立ってしまいたい」
「何をそんなに、急にいやけがさしたのか」
「ここに逗留《とうりゅう》の奴等が、どうも気に食わない、イヤな眼附でわれわれを見る、さもわれわれの素性《すじょう》を知り抜いているような目つきで、われわれを見るのが癪《しゃく》だ」
「えらく、小さなことを気にしだしたな」
「それともう一つ、夜中になると聞え出す、あの尺八が癇《かん》にさわってたまらない」
「ははあ、貴殿たちに似合わない、人の眼附を気にしだしたり、尺八の音を耳ざわりにしたり、まるで神経衰弱の気味だ」
「空気が違うから気に食わんのだ、イヤに一癖ありそうな冬籠《ふゆごも》りの奴等ではある、妙に身を落してはいるが、イヤに学者|面《づら》が鼻の先にブラ下がって、われわれを見下げるような面附《つらつき》が気に食わん」
「それは君たちのひがみだろう、そう悪い人たちばかりではない」
「それに、今晩、またあの尺八を聞かされては眠れるものでない、なんだか冥府《みょうふ》へでも引きこまれるように、妙に気が滅入《めい》ってたまらなかった、今晩、またあれを聞かされては本当にたまらないから、逃げ出すのだ」
「しかし、拙者の方は、そう一夜を争うほどの差しさわりは何もないのだから、明日出立のこととしましょう、諸君、たって出立なさるなら、遠慮なく一足お先へ」
と兵馬が言いました。
「では、丸山もその気でいるから、一足お先へごめん蒙《こうむ》るとしよう……そうしても君も一旦、松本へ出るだろうな。松本へ出たら、浅間へ来給え、ともかく、あれで待合わすと致そう」
「拙者の方は、しかとお約束はできない」
「浅間でいけなければ、甲州の有野村へ来給え、あそこで君を待っている人がある、有野村の藤原家の娘が、君を待ちわびているはずだ、よろしく」
「それもお約束はできない、御縁があらば、そのうち、いずれかで逢いましょう」
「時に宇津木君、君は路用を持っているか、用意があればさしつかえないが、もし手元不如意だったら、遠慮なく言ってくれ給え」
 これは不思議である。
 兵馬の方へ無心の出そうな面が、かえって、先方から勝手元を志願して出る。

         十四

 宇津木兵馬は、二人を先へ立たせてしまう方がかえって安心だと思いました。
 彼等が今日立ってしまったあと、自分は、ひとり悠々《ゆうゆう》と志す方へ旅立ったほうがよろしい。
 ただ一つ心配なのは、今夜のうちにも例の大雪でもあって、道が塞《ふさ》がった日にはことだが、まだそうたいしたことはあるまい。
 昔、佐々成政《さっさなりまさ》は雪中を、さらさら越えをして東海道へ出たという例もある。
 ところが様子を見ていると、一刻も早く、一時も早くと、いらだつように見えた仏頂寺と、丸山が、容易に立つ気色《けしき》はなく、またも御輿《みこし》を据えて、鶏肉の残りかなにかで飲直しの体《てい》ですから、さあ、またぶり返した、あの亡者連ときた日には、ほとんど捉まえどころがない、この分では後から立つといった自分の方が、先発をするようなことになろうかも知れぬ。
 どちらでもかまわぬ。自分としては、彼等に附きまとわれず、一人旅さえできれば結句それで満足だが、あとに残された彼等と、それから従来の冬籠《ふゆごも》りの連中との間の、意志と、感情との疎通《そつう》ぶりを考えてみると、どうも安んぜられないものがある。
 従来の客に対して、どうも気に食わない、気に食わないと、仏頂寺らが口癖のように言っている。尺八の音までも目の敵《かたき》にしている様子だ。
 この分で、双方が、相当の期間居残る間には、感情の行違いが嵩《こう》じて、風、楼に満つるといったような形勢にならねばよい、どうも、そうなるにきまっているらしい。
 仏頂寺、丸山は名うての者、逗留《とうりゅう》の冬籠りの連中も、それよりは異なった意味において、一癖も、二癖もありそうだから、無事では済むまい。兵馬は当然の順序として、その事を気にしないわけにはゆきません。
 しかし、それも、自分というものがおれば、いくらかその間に緩和剤ともなり得るが、自分が去ってしまえば、安全弁を抜きっぱなしで行くようなものだから、心もとない限りだ。
 どちらに廻っても厄介者だ――と兵馬は、苦《にが》りきっ
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