斎先生の一子新太郎殿がかけつけて、二人をしとめたということでした」
「ははあ、それは初めて承りました」
「普通の浪士の斬合いと違って、有名な剣術者の真剣勝負でしたから、これは後学のために見ておきたいと、かけつけた時は、もうすでに事が済んでいたので残念でした」
「そうでしたか。して、高部と三戸谷の両人はその場で斬られ、酒に酔わされて縛られた仏生寺弥助殿はどうなりました」
「三人ともに討首《うちくび》になったということは聞きましたが、その後のことは聞きません、まさかここに来ている仏頂寺殿が、その仏生寺殿の生れかわりであろうとも思われませんが……」
「なるほど」
 兵馬が、またも考え込んだ時、
「さあ、火がおこりました」
 久助が火をハサんだので、お雪がまだ以前のところに立っているのを知りました。

         十三

 お雪ちゃんのこのごろの仕事は、社会奉仕といえば一つの社会奉仕でしょう。
 ほかに女手の一つもない大きな宿屋の中のことですから、男で気のつかないことは、何でも自分の手でしてやらねばならぬという責任でもあるかのように、何かと気を配らずにはおられません。
 そこで、自分の炬燵《こたつ》に火のない時は、他の部屋のそれも同じように心配して、冬籠《ふゆごも》りの空気を、いくらかでも暖かいものにしてやりたいというような心づくしは、持って生れたこの人の親切気ですから、どうすることもできません。
 今も、十能の中に、かんかんとおこった炭火をたくさんに盛って、それを後生大事《ごしょうだいじ》に抱えながら、二階の梯子《はしご》を上りにかかりました。そうして二階のいちばん手近いところの部屋、つまり宇津木兵馬の座敷のところへ来て、ちょっとしなをして、様子を見た上で、誰もいないと知りつつ中へ入って行きました。
 今では、誰もいないどの座敷へも、相当の遠慮無しに出入りすることが、自分の特権のようにもなっていると思います。つまり、知らず識《し》らず、この宿屋全体の主婦であるという実際と、気位を、いつのまにか、事情がお雪に与えてしまったようなものです。
 兵馬の留守の間に、お雪はよく炭を生け替えて、新しい炭火をさしこみ、灰をならしておいて、それから余った炭を、火のしの上の炭火に加えて、そうして、暫く、うっとりとわが物のように、その炬燵に手を差しこんで考え込んでいました。
 そうすると、この室はいとど閑寂《かんじゃく》ですが、二三間を隔てた、あとの二人連れのさむらいの部屋では、カラカラと高笑いがしたり、話に興が乗ったり、罵《ののし》ったり、噪《さわ》いだり、あざけったり、議論を闘わせたりするようなのが、ひときわ耳に立ちました。至極元気のよい人たちだが、そのわりに騒々しくないのはところがらかと思いました。
 しかし、聞いていると気のせいか、二人ばかりであるべきはずの、また事実二人ばかりであるところの、二人の元気な会話の間へ、ちょいちょい女の声が入ります。
 何と言っているのだかわからないが、二人が無遠慮に高話をしている間へ、女が何か言って、ちょいちょい口をはさんでは、甘えてみたり、お酌《しゃく》でもしてみたり、そうかといえば、軽くからかわれて笑ったり、手きびしいいたずらをされて、きゃっきゃっというて振りもぎっているような空気と、調子が、お雪の耳についてなりません。
 最初のうちは、無論、それを自分の僻耳《ひがみみ》とばかり、問題にはしませんでしたが、あんまり長く続くものですから、お雪もようやく気になり出してきました。
 あの二人が酒を飲み合って、高話をしている中に、たしかに女の人が一人、とり持ちをしているに相違ない――どうしても、そうとしか受取れない空気の動揺を、お雪が感得せずにはおられませんでした。
 もしやあの人たちは、女子衆《おなごしゅ》をお連れになって来ているのではないか、とさえ疑われたものですから、お雪は、炬燵《こたつ》の中へ手を入れたままで、我を忘れて、その音を聞取ろうとしました。
 つまり、あのお二人の中に女が立交っているとすれば、それはいかなる女であるか。また、はっきりとは聞取れないが、何かしきりに二人の間へ調子を合わせているあの言葉、あれは何と言っているのだか、それを明らかに聞取りたいものだと、お雪は息をひそめて、耳をすましましたが、どうも、たよりのないことには、空気と、調子はそれだが、音そのものが何を言っているのだか、その単語の一つさえ、はっきりと聞取れないのが、もどかしくてたまりません。
 そこで、自分の耳のうちに起る幻覚として、それを打消しながら聞いていると、まさに男性二人だけの言葉で、それは、単語もはっきりと聞取れるが、暫くすると、また混線して、その間へ、何とも聞取れない女声《じょせい》の呂律《ろれつ》が入り来《きた》る
前へ 次へ
全40ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング