乗鞍ヶ岳の下の、鐙小屋と人の呼びならわすのがそれで……」
十一
これより先、仏頂寺弥助と、丸山勇仙とは、兵馬の座敷へ入り込んで、火鉢を中に鶏肉を煮ながら、酒を酌《く》み交わしておりました。
この鶏肉と、酒とは、どこで得たものかわかりません。どうも二人御持参の品らしい。御持参とすれば、どこからどうして持って来たかというようなことの詮索《せんさく》はやめましょう。とにかく、この宿へ来て、しかも、兵馬の入浴中を見はからって侵入して来たような、変則の来客でありながら、酒と、鶏肉だけは、こうもあざやかに、この宿で即座にととのえ得る理由が無い。ですから多分、充分の用意をして持参して来たものであり、同時に、兵馬のように、ほとんど偶然に近く誘引されて来たというのでなく、たしかに痕跡をつきとめて、後の先を制したようなつもりで、抜かりなくこの座敷を、あるじの不在中に占領した得意面が、明らかに見得るのであります。
ところで二人が、酒を飲み、鶏肉を食いながら、どんな話をしているかと聞くと、
「どうも、ありゃ見たような女だよ」
と丸山勇仙が言いました。やはり話題は女のことでありました。
「左様さ、たしか拙者といえども見たことの覚えのないとはいえない代物《しろもの》だ」
と仏頂寺弥助が合わせます。ここで話頭に上すまでもない、女のことゆえに、兵馬をしてよけいな焦躁をさせている二人。その事とはまた別に、話題が女のことになるのは、あれよりは近く、ここへ来る途中でか、或いはモット近く、問題になるべき女の印象が現われたものと見なければならぬ。
「この宿の娘とは見えない、女中ではなおさらない――だから、ここに逗留《とうりゅう》する客の一人と見なければなるまい。珍しく、こんな奥山に冬籠《ふゆごも》りをするらしい客がかなり多いようだが、そのなかで女といってはあれ一人らしい」
「左様、女一人とすれば連れがあるだろう、兄貴とか、夫とか、なんとかいうものと一緒に来ていなければならぬはずだ」
「立派な保護者があるのだろう」
「保護者がなければ、第一ここまで来られもすまい、来てもいられはすまい」
「左様、年若い女を一人、保護者無しに、こんなところへ手放す奴も無かろうじゃないか」
「それはそうに違いないが、どうも見たことのたしかにある娘だが、度忘《どわす》れをしてしまったよ、思い出せないよ」
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