書き方だから失望しました。
室に置きっぱなして行った、衣服旅装のたぐいといえども、それに準ずるもので、風流や、しゃれや、にやけという気分は微塵《みじん》もなく、質実な武家出の旅の若者のかいがいしい武骨さがあるばかりであります。
それでもお雪には、なんとなく人懐かしい。ただでさえ人懐かしいと思うところに、新たに来た人といえば、それだけで一層懐かしい。ましてこれはここにいる客人のうちで最も若い人ではあり、その若い人が何の用向か知らないが、今時分、たった一人で、こんなところまで踏み込んだのは、よくよくのことでなければならないし、そのよくよくの場合に病みついたなんぞということは、お雪の感傷的な同情深い女性的の半面を呼び起すにもかなり有力です。
どうも、済まないような気持になりながら、お雪は、その、開けっぱなしにしてある部分だけでなく、もう二三枚ずつさかのぼって、それを読んでみたい気になりました。
気になったのではない、もう読んでいるのです。
しかし、なんらの、そこにセンセーションを呼び起すべき記事を発見することができません。相変らずの棒書きで、小遣帳《こづかいちょう》に毛の生えたようなもので、自然と風景の批評もなければ、人情と土地柄の研究もありはしない。たまにあるとすれば、どこはどこに比して、人間が親切だとか、宿賃が比較的安い、といったような簡単なもので、無理にも盗み見の興を催させるような記事は一つもない。
だが、お雪が、もう少し図々しく構えて、いっそのこと、机の前に全く膝をつっこんで、お尻を据えてしまって、逆にでも、順にでもいいから、帳面を根本的に読みのぼって行ったなら、俄然《がぜん》として、驚くべきことを発見したに相違ありません。
この俄然として驚くべき発見というのは、この日記の主《ぬし》が、現に、自分の甲州の上野原の月見寺に少しの間ながら逗留していたということ。
それを逗留させたのは他人ではなく、こうして現に盗み見をしている自分であること。
そうして、あの時分の出来事が、これと同じように平々淡々たる棒書きで、このうちのあるページの記事として見られるということ。それらを発見して――この娘が人から多く愛せられ、人をも愛することの多いこの娘が、全く路傍の人ではなかったことを、この時、この際に発見し得たなら、驚き喜ぶに相違ありますまい。
ところが、お雪には
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