気味は少しもなく、ただ今日の心覚えを、明日の参考にとどめておく、金銭出入帳に毛の生えた程度のものに過ぎないのですが、書いていれば、日課としてそれをしなければ、朝起きて面《かお》を洗わなかった時のように、一種の不愉快を伴うほどの習慣になっているのです。
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「白骨ノ温泉ニ到着ス
病気
コノ地、秋ヨリ冬ニカケテハ、旅宿ハ戸ヲ釘ヅケニシテ里ニ去ル例ナレドモ、今年ハ珍シク冬籠《ふゆごも》リノ客多数居残リヲレリ……」
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といった程度の文章で、歌もなければ、発句《ほっく》もない。文学的感傷めいたひらめき[#「ひらめき」に傍点]は一つも現われて来ないのだから、問題になりません。
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「病気程無ク快癒
昨夜三階ノ一室ニ人有ルガ如ク、無キガ如キ思ヒス、尺八ノ音起リテ忽《たちま》チヤム
明日、コノ処ヲ発足センカ、マタハモ暫ク逗留センカ、未《いま》ダ決心セズ」
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というようなことを書いて、さて兵馬は、これから下へ行って炉辺閑談の席へ加わろうか、また入浴に行こうか、と思案したが、やがて手拭を持ってズカズカと出かけたところを見れば、閑談の席へは行かず、入浴を志したものでしょう。
兵馬が手拭を下げて出て行ったあとへ、お雪が入って来ました。
炬燵《こたつ》へ火を入れて上げようとして来て見ると主《ぬし》がいないので、失望しましたが、鉄瓶にお湯があるかないか、お茶道具が揃っているかいないかというようなことを、ちょっと調べながら、机の上を見ると、半紙四つ折りの日記帳が開《あ》けっぱなしになって、その間に筆がはさんでありますから、お雪は見る気もなく、それをのぞいて見ました。
物を書くことの好きな、歌をつくることの好きなお雪は、このお客様も筆と紙とを、旅枕にも放さぬ人であってみれば、また同好の風流を話せる人ではないか、というような好奇心もあったものでしょう。
のぞけば、おのずから、読めるようになっているのだから、それを読んでみると、前にいう通りの棒書きで、歌もなければ詩もない。わが胸の燃ゆる思いに比ぶれば、焼ヶ岳の煙が薄いとか厚いとかいうこともなし、信濃の国の白骨となん呼べるいでゆ[#「いでゆ」に傍点]に遊びてしかじか、と書いてあるのでもない、いわば小遣帳《こづかいちょう》の出来のいいような、徹底的に実用向きの
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