して宿屋の間毎間毎を探し試みているうちに、蒲団《ふとん》の塁《とりで》の中で見つけなくてもいい仇《あだ》し女を見つけてしまいました。それが縁で、今はその女をも何とか先途《せんど》を見届けてやらないことには、自分の良心にやましいような事態となりました。
 そこで、まだややものうい身体を運んで、片手には一刀を携え、そうしてこの間毎間毎を忍びやかに探りながら来たのではあるが、一体に人間臭の無いことは中房以上です。
 兵馬はさもあるべきことと一巡しながら、廊下を半ばまで来た時分に、短笛の音《ね》が起りました。尺八の声です。実は前の晩も、この尺八の声に引寄せられて来たような姿でした。それが今、不意に、しかしながら、極めてしめやかに起ったのは、つい自分の行手の、鍵の手になった廊下の奥の一間からであります。
 この物音に、兵馬が足を踏みとどめました。
 それが何の曲ということを、兵馬は知らない。
 ただ第一に、気を取られたのは、心なく、人の清興を妨げてはならないということでした。
 第二に、少なくともこの場合、自分の行動が紳士的でないというようなことを考えました。つまり、無下《むげ》に来るべきところでないところへ入りこんだのは、先方から何かの疑惑をかけられても仕方がない立場だから、これより以上は一歩も進まないで、その清興の人の心を、かりそめにも動かさず、静かにもと来し道へ帰るのが礼ではないか、と思いましたものですから、ちょっと行き悩みました。
 しかし、兵馬が、こんな思案をして、用心して、引返そうとしているうちに、尺八の一曲も終ったと見えて、また、ひっそりした天地にかえったものですから、それならば、いっそ、ここをずっと突きぬけて、いま尺八の音のしたあたりの部屋の前をも通り過ぎて、廊下のはずれから二階へ下りて、自分の部屋へ帰った方がよかろうと思案を改めます。
 つまり、尺八を吹き鳴らしている間こそ、人の清興をさまたげては悪いという遠慮気兼ねもあるが、それが済んでしまってさえみれば、さりげなき体《てい》で、尋常の通行人として、その通り去り、通り来《きた》る分には、何の憚《はばか》るところもあるべきはずがない。
 そのように思案を改めたものですから、兵馬はそれからは忍び足もせず、間毎間毎をうかがうような振舞もせず、尋常に足音を立てて廊下を歩んで、志す方へと行きましたが、不思議なことには
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