泉を立ち出でました。
 例の鐙小屋《あぶみごや》の神主をも一応おとずれて行こうと、無名沼《ななしぬま》のほとりに来て見れば、なるほど、小屋はあるが人が無い。多分、山上へ修行にでも行って留守なのだろう。
 逢えない時には逢えないものだ――兵馬は、軽いあきらめを以て、かねて教えられていた道筋を、飛騨の平湯の方をめざして、山渓の間に没入してしまいました。
 来たる時に、兵馬を誘引したらしい「鈴慕」の曲も、帰る時は音沙汰《おとさた》がありません。

 こうして二ツの星が、逢わんとして、閾《しきい》の内と外まで引寄せられて、また相距《あいさ》ること千万里。
 しかもそのいずれも、自らきわどい運命を知ることができませんでした。
 ことに兵馬は幾度か、こんな目に逢わされつけているが、自分がそれを知らないだけに、神様のいたずらに腹を立てたこともなければ、運命の数奇に頓悟したこともない。
 多分、それは神様の方で、出直せ、出直せとおっしゃっているのかも知れない。求めよ、さらば与えられんとはいうが、求めて与えられないのは、求め方が間違っているのかも知れぬ。
 これは単なる離合のあやつりではあるまい。
 求めんとして与えられず、掌《て》の中へ入れてもらいながら、それを受取ることを知らず、千里の遠くを見ながら、寸前の暗黒を如何《いかん》ともすることのできない悲劇、喜劇は、この人間の世に無数であるのみならず、天上においても、無辺際に繰返されている。

 この場合、白骨温泉に落合った二ツの星が、どちらが惑星《わくせい》で、どちらが彗星《すいせい》だか知らないが、二つ共に、一定の軌道をめぐっていないことだけはたしかのようです。
 従来、五年半の周期で太陽をめぐっていたレキセル彗星が、千七百七十九年、木星に接近したために、どうした変動か行方不明《ゆくえふめい》になって、今日まで出て来ないということです。
 これに反してブルック彗星は、同じ星に接近したために、従来二十七年の周期が七年に短縮されてしまったということです。
 地球人は、とうにハリー彗星と衝突していたはずだが、その衝突の酣《たけな》わなる時も、われわれは何の異状なく、今、現に大衝突をしつつあるのだという自覚にも、現象にも、触るることなしに、無事安穏に通過してしまいました。
 昭和三年七月三日(西暦千九百二十八年)江戸川|大曲《おおまがり》
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