しました。
「忌《いや》だ、忌だ、おれは、あの尺八の音というやつが忌だ」
 それを、丸山勇仙が笑止がって、
「性に合わないのだろう、君は、風流というものに縁無き衆生《しゅじょう》だ」
「どうもいかん、あれを聞いていると、心が滅入《めい》るのみならず、骨と、身が、バラバラに解けて、畳の中へしみ込んでしまいそうだ」
 起き上ったが、両の耳に、しっかと掌を当てて、
「どこか、あいつの聞えない座敷はないものかなあ」
「もう少し待てよ、そのうちに終る」
 丸山勇仙は、必ずしも、それほどに悪い気持で尺八を聞いているのではない。だから、他人の痛いのは百年も我慢するつもりで、落ちつき払い、
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「客ニ洞簫《とうしよう》ヲ吹ク者アリ、歌ニヨツテ之《これ》ヲ和ス、其ノ声、嗚々然《おおぜん》トシテ、怨《うら》ムガ如ク、慕フガ如ク、泣クガ如ク、訴フルガ如シ、余音《よいん》嫋々《じようじよう》トシテ、絶エザルコト縷《いと》ノ如シ、幽壑《ゆうがく》ノ潜蛟《せんこう》ヲ舞ハシ、孤舟《こしゆう》の※[#「釐」の「里」に代えて「女」、第4水準2−5−76]婦《りふ》ヲ泣カシム……」
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と、余音《よいん》をことさらに長くひっぱって空嘯《そらうそぶ》いていましたが、そのうちになんとなく、自分も悲しくなりました。
 仏頂寺弥助は、しっかりと耳錠《みみじょう》かいながら、
「まだ、やってるかい」
「うむ」
 丸山勇仙がうなずいてみせると、面《かお》をしかめて、いっそう耳錠を固くする。
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「蘇子、愀然《しゆうぜん》トシテ襟ヲ正シ、危坐シテ客ニ問テ曰《いは》ク、何スレゾ其レ然《しか》ルヤ、客ノ曰ク、月明ラカニ星稀ニ、烏鵲《うじやく》南ニ飛ブハ此レ曹孟徳ガ詩ニアラズヤ、西ノカタ夏口ヲ望ミ、東ノカタ武昌ヲ望メバ、山川《さんせん》相繆《あひまと》ヒ、鬱乎《うつこ》トシテ蒼々《そうそう》タリ、此レ孟徳ガ周郎ニ困《くるし》メラレシトコロニアラズヤ……」
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「まだかい」
 仏頂寺弥助が渋面をつくると、丸山勇仙は、前と同じように首を横に振り、
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「其ノ荊州《けいしゆう》ヲ破リ、江陵ヲ下リ、流レニ順《したが》ツテ東スルヤ、舳艫《じくろ》千里、旌旗《せいき》空ヲ蔽《おほ》フ、酒ヲソソイデ江ニ臨《のぞ》ミ、槊《ほこ》ヲ横
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