そうだ、それに違いない、いま、来たのは、あれはあの娘さんだ、この宿の冬籠りのうちで、たった一人の女性、たった一人ではあるが、女性の最もよいところを多分に備えているらしいあの若い娘さんだ。
 誰もいないと安心して来て見ると、意外にも自分というものが隠れていたから、それで急に恥かしくなって引返したのだろう、そうだとすれば気の毒なことだ、だが、こういった山奥の温泉宿で、それはあんまり遠慮が深過ぎはしないか。
 なにも、ここへ入って来たとて、恥かしがるがものもありはすまいに、しおらしい遠慮だと、兵馬はまたかえって、それを微笑みました。
 兵馬の推察は、半分は当っているが、あとの半分――どんな心持でその娘が急に立去ったかは、全くわかろうはずがありません。
 お雪のこの心づかいは、賢明なものでありました。
 それは、自分たちとしては、誰に逢っても、誰と話をしても、さらに後ろめたいことは無いけれども、自分たちの連れには、人に知られていいか、悪いかわからない人がいる。当人も人には逢いたがらないし、自分たちも人に会わせたくないと思う人がいる。
 湯治に来たとはいうものの、実はその人を隠さんがために、はるばるこの白骨の山間《やまあい》まで来たというような結果になっている。
 その人は、ことさらに逃げ隠れるという卑怯な振舞はないが、陽《ひ》の目、人の目を、避けることを好んでいるらしく、また、おのずから、それを避けるように出来ている。
 お雪は、その人が、こうなるまでの来歴を知らない。知りたいとも思うが、そこを掘ると底知れない暗やみの穴が現われて、自分がその中にまき込まれるように思うから、怖《こわ》くてその蓋《ふた》があけられないような心持でいる。
 しかし、その人の魂には、あらゆる創《きず》がついて、そこから血が滲《にじ》み出ているのを、まざまざと見せられる。
 容易ならぬ罪業《ざいごう》の人である。
 男というものは、閾《しきい》を跨《また》げば七人の敵があるものだという話だが、この人の敵は、七人や八人ではあるまい。
 それはどこに、どういう敵を持っているのだかわからないけれども、どのみち、誰にも知られないうちに、あの満身の病根に療養を加えさせて上げたいという、暗示的に来る同情心が、この際、お雪の逸《はや》る心を抑えて、そうして、飛び立つほどに名乗りかけてもみたかった兵馬に対して、一言
前へ 次へ
全79ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング