、見るともなしの隙見で、羽目の隙間から中を見ると、兵馬の姿を明らかに認めることができました。
この時は、兵馬を兵馬として明らかに認めたのだから、驚きました。
到着の最初から、今まで、言葉も交わしたし、形も見ていたし、看病の親切までしてやっているはずなのに、おたがいにまだそれと気がつかずにいたのを、ここではじめて、お雪の方から兵馬というものを、兵馬としての全体を、不意に受取ったのだから、驚くのも無理はありません。
ある日の夕方、疲れ果てて、自分の月見寺の井戸のそばへ来て、一杯の水を求めた可憐《かれん》な旅の人が、その人でした。
そうして、同情のあまりにその夜さ[#「夜さ」に傍点]を寺に泊めたために、計らず自分たちが危難を救われる縁となったのは、その人ではないか。
何かを求めて、旅にさすらいの人とは言いながら、ここであの人に――お雪は飛び立つほどに、その奇遇をなつかしく思いましたけれど、兵馬の方ではいっこう気がつかないで、まだ隙見の人は隙見をやめないなと、軽く気に留めているばかりです。
目のあやまちではないかと、お雪ははやる心を鎮《しず》めて、とっくりと兵馬を見定めようとしましたが、よく落ちついて、見れば見るほどその人ですから、今は間違いないと思いきって言葉をかけて名乗りをしようとしましたが、何かおさえる力があって、それを躊躇《ちゅうちょ》させたのが不思議です。
いけない、いけない、先方が気がつかないのだから、こっちから名乗りかける必要も、義務もないではないか、という声が、お雪の耳もとでささやいて、何かしら、手をかけて後ろへ引戻そうとする本能があります。
お雪はそこで引戻されました。ゆかたの上へ丹前を羽織って、せっかく、飛び込もうとした湯槽《ゆぶね》に心を残して、音のしないように、気取られないように、この場を立ち出でてしまいました。
全く、その気配が消えた時に、兵馬が変な人があればあるものだ、共同の風呂だから、誰に遠慮もあるまいに、自分がここにいることを認めた上で、こっそりと立去ってしまった者がある、自分がそれほど怖ろしげに見える相手か知ら、自分の方でこそ気の置ける人もあろうに、先客が新来の人に遠慮をする由《よし》もなかろうに。
さりとは、妙にハニかんだ人だと、兵馬が笑止《しょうし》に思いました。
しかし、笑止に思ったのも束《つか》の間《ま》、ああ
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