そばしてはいけません、どうぞお放し下さい」
お雪には、その押えられた手の主が誰であるか、見当がつかないらしい。
ここには多くの男性がいる。否、自分一人を除いては、すべては男性であって、そのうちにはかなり異種類の人が雑居しているのだから、そのうちの誰の手と見当のつけようのないのもぜひがないでしょう。
しかしながら、池田良斎の一行の人たちの中には、かりにもこんな無作法な人はひとりも無い。留守番や、猟師たちの人は、質朴な山気質《やまかたぎ》の人たちで、自分たちに一目も二目もおいて、敬意を表していようとも、こんな無作法を働く人はひとりもない。
当惑の限りを尽したお雪は、大きな声で叫びを立てて、救いを求めようかとさえ思いました。
しかし当座のいたずらでするものを、そうまでするも、たしなみがなさ過ぎるように思って我慢をし、
「どうぞお放し下さい」
「は、は、は、は」
と、はじめて高笑いしたが、手はまだ放そうとしないから、
「お放し下さらなければ、人を呼んで助けていただきますよ」
「は、は、は、は、誰だかわかりますか」
その声は太い声でしたが、それでもまだ思いあてることができない。
「わかりません――どうぞ、お放し下さいまし、ね」
「は、は、は、驚きましたか」
ここに至って手を放して、突き出した面《かお》を見ると、それは問題の仏頂寺弥助でありました。
お雪は、仏頂寺の面を見てゾッとしました。
もう少しおきゃんな子であったら、いきなり仏頂寺の面《つら》をハリ飛ばしたかも知れません。寛容なお雪にしては珍しいほど、憎悪の念が、この時にこみ上げて来ましたが、その次には、ほとんど座にたまらぬほど、恐怖の念さえ加わってきましたものですから、
「どうも失礼しました、御免下さいまし」
と自分がわびて、火のしを持って立とうとするのを、仏頂寺が、
「まあ、よいではないか、取って食おうとも言やしませんよ」
それでもお雪は、取って食われるより怖ろしくなったが、幸いなことに、その時、廊下で足音がしたのは多分、この部屋のあるじ、宇津木兵馬が立戻って来たのでしょう――そのすきを見てお雪は、むしゃくしゃにこの座敷を飛び出してしまいました。
仏頂寺弥助は、その時、もうすっかり旅の仕度《したく》をしておりました。
お雪が逃げ出したあとへ、入違いに入って来た宇津木兵馬を見て、
「宇津木、さあ
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