調《くちょう》で、すらすらと口をついて出でました。
 なぜか、お雪ちゃんはこの歌が好きです。それは歌の心が好きなのではなく、口当りがいいから、それで思わず繰返されるのかも知れない。そうでなければ、相聞《そうもん》の歌では、これがいちばん男性的であるというような意味で、良斎先生の愛誦《あいしょう》となっているところから、その口うつしが、思わず知らず、お雪ちゃんの口癖になっているのかも知れない。
 万葉の歌は上代の歌人の――上代の歌人とのみいわず、すべての人類の血と肉との叫びであります。人生に、恋にいて恋を歌うほど苦しいものはなく、恋を知らずして、恋歌をうたうほど無邪気なものはありますまい。
 その時、湯槽《ゆぶね》の方で高らかに笑う男の声がする――まもなく、トントンとかなり足踏みを荒く三階の梯子《はしご》を上る人の足音がする。もしやとお雪ちゃんは狼狽《ろうばい》しました。ここへ誰か訪ねて来るのではないか知ら。あの遠慮のない北原さんでも押しかけて来るのか知ら……それではと、あわただしく縫取りを押片づけて心構えをしていましたが、足音はそれだけで止んで、ここへ渡って来る人もありません。
 来《
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