、別に何か生涯の考えはなければならないはずだ――と、兵馬はよけいなことを考えてみる。よけいなことではないのだ。つい先頃までは、自分の心持のほとんど全部を占領していた重大事には相違ないのだが、強《し》いてそれを、ツマらないこととして葬ってしまおうと苦心している時、入口ののれん[#「のれん」に傍点]が颯《さっ》とあいたので、われにかえりました。
「来たな……」
 来たのは女だ……と思いました。それは今まで頭の中にこびりついていた元のなじみの女の顔だか、それとも馬を以て迎えにやった、かりそめの道中づれの女だか、ちょっと、兵馬の頭では混乱しましたけれども、来たのは、まさに女に違いない――と兵馬は、バネのようにはね起きました。
 バネのようにはね起きなくとも、むしろこの場は、来ても、来なくてもいいように、悠然《ゆうぜん》と横になっていた方が形がよかったかも知れないが、兵馬はとにかく、バネのようにはね起きてから、自分の軽挙を、多少にがにがしいように思い直し、わざと落ちついて、のれんの方を見ると、ほとんど音もなくはいって来たにははいって来たが、それは女ではありませんでした。
 女でないのみならず、男
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