のだろう。商売だから仕方がないものの、その多数の客のうちでは、自分だけがいちばん可愛がられていたという思い出は、まだどうしても去らないに違いない。
 だが、先方は玄人《くろうと》だ。こっちがあせればあせるほど、擒縦《きんしょう》の呼吸をつかむことが、今になって、わからないでもない。武術の上から見ても、この点は段違いだと、胆《きも》を奪われたことが幾度か知れない。夢中に夢を見て、それが夢だとは思われないと同じこと、玄人であり、商売人であり、かけ引きと、翻弄とのほかに真実味は何もない――と悟らせられながら、やっぱりそれにひっかかる。
 みようによっては、どこを見ても、ここを見ても、隙《すき》だらけだと、腹に据えかねながら、それに打ち込めない。打ち込めば、思う壺というように、あやなされてしまう。
 その太刀筋《たちすじ》がよくわかる時と、まるっきりわからないことのあるために、煮え切らない、腑甲斐《ふがい》のない、ふんぎりのつかない、なまくら者にされてしまうことが、我ながら愛想の尽きるほど心外千万だ。
 だが、あの女も、ああして老人《としより》のお囲い者となって、あれで満足していようはずはない
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