のはないらしいが、火だけは、人がいても、いなくても、ひねもす夜もすがら燻《くすぶ》っているから、自然、何となしに、人間の温か味も絶えないように見えます。
 兵馬は縁台の一つに腰をかけると、そのままゴロリと横になって、頭をかかえてしまいました。
 来るならば、馬の足だから、もう疾《と》うに着いてもいいはずだ。自分より先へ着いてもいいはずだ。道は例によって悠々閑々と歩いて来たのだから、途中で追い抜くくらいになってもいいはずなのだが、それがまだ着かない。
 自分で振切ったものを待っているというようになっては、後ろめたい話だが――そうかといって、約束は約束だ。
 こういう時に、吉原でさんざんに翻弄《ほんろう》された、つい遠からぬ頃の記憶が、芽を吹き出さないということはない。実は翻弄ではない、あれがあたりまえなのだ。玄人《くろうと》が素人《しろうと》をあやなす手はあれにきまったものなのだが、こっちが真剣でかかればかかるほど、その結果が翻弄ということになってしまうのを、兵馬も今は気がついているでしょう。
 多分、苦い味は嘗《な》めさせられたけれども、まだそこまでは、人生というものを軽蔑はしきれない
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