けてはみるだろう、というような期待もあって、兵馬は相変らずの調子で、日本アルプスを後ろに、松本平を前に、月明の夜、天風に乗じて人寰《じんかん》に下るような気取りで歩いて行きましたが、今度はさっぱり手ごたえがありません。後ろから呼びかける声もなく、追いすがる足音もなく、そうして、とうとう一町半ほど歩んで来てしまいました。
 その時に、兵馬も、不安を感じないわけにはゆきません。
 実は、不安を感ずるのはいけないのだけれど、最初の機鋒を最後まで通して、女が泣こうが、追いすがろうが、立ちどまろうが、退こうが、押そうが、動ぜずして振切り通すだけの切れ味があれば、さすがなのだが、これが無いところが、兵馬の兵馬たるゆえんかも知れません。
 一町半ほど、そうして歩いたところで、やむなく兵馬は後ろを顧みてみました。
 そこには誰もいない。
 月夜で、見通しの利《き》く限り、その一町半の間には紆余曲折《うよきょくせつ》も無かったところに、女の影が見えません。
 あっ! と兵馬は面《かお》の色をかえました。今ここで面の色をかえるくらいなら、最初から、あんなつれない[#「つれない」に傍点]真似《まね》をする必
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