は、いけません、それだから、私が怖れました、ああ、今や、その怖れが本物になりました」
「何を言ってるの、弁信さん」
「お嬢様、あなたこそ、何を言っていらっしゃるのです」
「わたしは何も言ってやしない、ただ、怖いから逃げて来たのよ」
「火事が怖ろしいだけではございますまい、あなたのお胸には、良心の怖れがございます」
「何ですって」
「ああ、あの火事の知らせる早鐘よりも、あなたのお胸の轟《とどろ》きが、私の胸に高く響くのはなにゆえでしょう、あの火事の炎の色は見えませんけれど、あなたの息づかいが、火のように渦を巻いているのが聞えます」
「弁信さん、出鱈目《でたらめ》を言ってはいけません、誰だって……誰だって、こんなに急いで来れば動悸《どうき》がするじゃありませんか、そんなことを言うのはよして頂戴、そうでなくってさえ、わたしは怖くてたまらない」
「何が、そんなに怖いのでしょう、火事は家を焼き、林を焼くかも知れませんが、人の魂を焼くものではありません」
「だって、だって、弁信さん、お前は眼が見えないから、それで怖いものを知らないんでしょう」
「怖いのは、火事ではありません、人の心です」
「いやな
前へ
次へ
全373ページ中346ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング