月明の夜を選んだか知らないが、その足どりから見れば、中房の温泉にも望みを失して、すごすごともと来し道を引返す心のうちが、察せられないでもありません。
 それにしても、歩みぶりが甚だ悠長《ゆうちょう》で、旅装《たびよそおい》は常習のことだから、五分もすきはないが、両腕を胸に組んで、うつらうつらと歩いて行く歩みぶりは、いくら月明の夜だからといって、案外な寛怠《かんたい》ぶりであります。
 兵馬は、それでも、少し自分の足が早過ぎたなという心持で、振返って立ちどまると、後ろに一つ、うつむいて草鞋《わらじ》の紐《ひも》を結び直すらしい人影がある。
 さては伴《つれ》がある――察する通り、その伴の人は、杖を下に置いて、しきりに草鞋の紐を結び直しているものに相違ない。
「どうです、うまく結べますかな」
と兵馬が、寛怠ぶりで問いかけると、
「結べやしませんわ、結んでも結んでも、解けてしまうんですもの」
 それは女の声であります。
「ちぇッ、世話を焼かせるなあ」
と兵馬が、少しじれったがりました。
「でも仕方がありませんわ、草鞋なんて、足につけたのは、今日が初めてなんですもの」
といって女は、しきりに草
前へ 次へ
全373ページ中35ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング