て、附近の虚空院鈴法寺の衰えたるをおこさんとして果さなかった。あの寺は関東の虚無僧寺の触頭《ふれがしら》、活惣派の本山。下総《しもうさ》の一月寺、京都の明暗寺と相並んで、普化《ふけ》宗門の由緒ある寺。あれをあのままにしておくのは惜しいと、病床にある父が、幾たびその感慨を洩らしたか知れない。自分が孝子ならば、その高橋空山という父の師なる人を探し当てて、そうして父の遺志をついで、あの寺を再興するようなことにでもならば、追善供養として、これに越すものはなかろうに……
 父はまたよく言った、人間の心霊を吹き得る楽器として、尺八ほどのものは無く、人間の心霊を吹き現わし得る楽器として、尺八ほどのものは無いと――父といえども、世界の楽器の総てを知りつくしたわけではなかろうが、以てそのあこがれの程度を想い知ることができる。
「竹調べ」から「鉢返し」――「鉢返し」から「盤渉《ばんしき》」
 世界もちょうど――平調《ひょうじょう》から盤渉にめぐるの時――心ありや、心なしや、この音色。

         五

 宇津木兵馬は、今宵月明に乗じて中房《なかぶさ》を出で、松本平の方へ歩みます。
 どうして、特に
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