、おそらくこの近いところに、呼びかけた当人はいないにきまっております。しかし、また、呼びかけた当人がいても、いなくても、弁信は、ふとその頭に上り来ったほどの人は、かたわらに在るが如く呼びかけるの習わしは、今に始まったことではありません。
「モシ、お嬢様、あなたはまた、何かおむつかりになっておいでになりますね、お腹立になっておいででございましょう、あなたが、烈しい憤怒《ふんぬ》の念に駆《か》られておいでになる有様が、私の前に、手に取るように浮んでいるのでございます――」
こういって弁信法師は、真暗い野原の中に耳を傾けて、また暫くは無言でおりました。別段、返事を期待しているとも見えないが、何か心には期するところがあるにはあるもののようです。
第一、ここは白根三山の麓《ふもと》、平野のまっただなかであるか、或いは平野と同じほどに広い藤原の庭内であるか、それすらもよくわかりません。しかし弁信の立っている地点は、屋外であることに間違いありません――絶叫してみたところで、そうは容易《たやす》く人の耳に触れるほどの距離ではないのであります。まして弁信の声は、怨《うら》むが如く、泣くが如く、憂《う
前へ
次へ
全373ページ中335ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング