の》と思うと案外、その黒い袋入りの一品を手にとって、クルクルと打紐《うちひも》を解いて取り出したのは、尋常一様の一管の尺八でありました。
 極めて簡単にそれを引き出して、歌口を湿してみましたが、相応に興も乗ったと見えて、いずまいを直して、吹き出したのを聞いていると「竹調べ」です。
 机竜之助は、どの程度まで尺八を堪能《たんのう》か知らないが、おそらく、この男が、この世における唯一の音楽の知己としては、これを措《お》いてはありますまい。
 これは父から習い覚えたものです。父は幼少の竜之助に、本曲のほかは教えませんでした。竜之助もまた、父の教えた本曲のほかには、何を習おうともしませんでしたから、知っているのは本曲ばかり。興に乗って吹いてみるのも、興に乗らずして手ずさみに笛を取ってみる時も、やはり本曲。
 つまり、本曲のほかには、吹くことも知らず、吹こうともしませんでした。
 といって、本曲、そのものの玄旨に傾倒して、他を顧みずというほどに、妙味がわかって吹くというわけでもないのです。父から、やかましい伝来の由緒を、教えられるには教えられたけれど、そんなことは、てんで頭へは寄せつけなかったく
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