見て五日や七日は、飯が咽喉《のど》へ落ちないそうだ、なかには一生それが附きまとって、ああ、あんなものを見るんじゃなかったと、生涯苦に病《や》んでいる奴もある、見ねえ方がいいさ。若い衆、お前さんなんぞも、もしや眼前にそんな噂《うわさ》があっても、決して見物に出かけなさるなよ、出世の妨げになるから、あんなものは決して見ねえ方がいい」
 七兵衛は、細々《こまごま》と申し含めるようなことを言って、与八を煙《けむ》に捲きながら、以前の裏の戸を押開けて、外の闇に消えてしまいました。
 まもなく、七兵衛の道中姿を、多摩川を一つ向うへ隔てた吉野村の、柚木《ゆき》の即成寺《そくせいじ》の裏山の松の林の中に見出します。
 非常に大きな赤松の林、ここから見ると山間《やまあい》が海の如く、前岸の村々の燈火《ともしび》が夜霧にかすんで、夢のような趣でありました。
 大きな松の木蔭に立って、いま出て来た水車小屋のあたりを見下ろしている時分に、月がようよう上って、奥多摩の渓谷の半面を、明るく照らしたその光で見ると、七兵衛の眼にも露が宿《やど》るらしい。

         二十六

 木曾《きそ》の福島の宿屋で、今
前へ 次へ
全373ページ中264ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング