晩は道庵先生が大声を発しております。
もはや、夕飯も済み、これから寝に就《つ》こうとするにあたって、道庵が突然大きな声を出しはじめたものだから、最初はあたり近所の人々が驚きましたけれど、やがて、驚かなくなってしまいました。
それというのは、無意味に大声を発したのではなく、よく聞いていると、それは急に本を読みはじめたものらしいから、宿の者も安心したのです。
それにしても、道庵が今晩に限って、なぜ、こうして改まって本を読み出したのだか、また、こうまで改まって、道庵をして巻を措《お》くを忘れしむるほどの書物は何物であるか、それは充分にわかりませんが、道庵の眼の前には、たしかに一冊の書物が置いてあるにはあるのです。
枕元のところに一冊の書物がひろげてあって、それを前にして道庵はキチンとかしこまって、しきりに朗々と読み立てているにはいるのですが、肝腎《かんじん》のその眼が、いっこう書巻の上には注いでいず、向うの行燈《あんどん》の、やや黄ばみかかった紙の横の方に「へへののもへじ」が書いてあって、その下から、一匹のこおろぎが油をなめに行こうとするところを、一心に見つめながら、そうして唇はしか
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