以前は、誰がいても遠慮なく入って行ったものですが、このごろは、どうしたものか、なるべく人目を避けるようにして、誰も入っていない時をねらうようにしては、こっそりと、お湯につかるようになりました。
 それというのは、いつぞやあのいや[#「いや」に傍点]なおばさんから、からかわれて、乳が黒いといわれたのが、突き刺されたように胸の中に透っているものですから、それが気になって、昨日までは、人に見せても恥かしくないと思っていたこの肌が、今日は、自分で見るさえも恐ろしくなることがあるのです。
 お雪ちゃんの不安はそのところから始まりました――それがない時には、無邪気に、晴れやかに、誰にも同じように愛嬌《あいきょう》を見せ、同じように可愛がられているお雪ちゃんが――ふとそのことに思い当ると、暗くなります。
 何ともいえない不安がこみ上げて、こんなはずはない、そんなことがあろうはずはないと、さんざんに打消してはみますが、打消しきれないで、とうとう泣いてしまうことが、この頃中、幾度か知れません。
 ああ、弁信さんが言う通り、こんなことから、わたしは、生きてこの白骨の温泉を帰ることができないのかも知れない――あれは、わたしの身の上の予言ではなくて、その運命は、いや[#「いや」に傍点]なおばさんだの、意気地のない浅吉さんだのが、代って受けてくれてしまったのではないか。今に始まったことでない弁信さんの取越し苦労――それを他事《よそごと》に聞いていたのが、追々にわが身に酬《むく》って来るのではないか。それがために、お雪は書いても届ける由のない、届いても見せるすべのない盲目法師《めくらほうし》の弁信に向って、ひまにまかせては手紙を書いているのは、ただこの心の不安と苦悶《くもん》とを、他に向っては訴える由もないからです。
 つい今まで、晴れ晴れしていたお雪ちゃんの心が、また暗くなりました。
 ぼんやりと、見るともなしにふすま[#「ふすま」に傍点]を見つめていた眼から、涙がハラハラとこぼれました。ついに堪《こら》えられなくなって、面《かお》もこたつ[#「こたつ」に傍点]のふとん[#「ふとん」に傍点]の上に埋めて、なきじゃくってしまいました。
 だが、自分ながら、なんでそんなに悲しいのだかわかりません。身に覚えがない、何も知らない、と自分で自分をおさえつけていながら、それがおさえきれないで泣いてしまう心持が、どうしてもわかりません。
 そこでお雪ちゃんは、思い入り泣いてしまいましたが、身を入れていたこたつ[#「こたつ」に傍点]の火が消えてしまっているというのを知ったのは、その後のことでありました。
 ああ、火が消えてしまった。それでもお雪ちゃんは少しの間、身動きもしなかったが、やがて立ち上って、炭入と十能を取って、丹前を引っかけたまま、障子をあけて廊下へ出ました。

         二

 お雪ちゃんが、炭取と十能を持って外へ出たのは、自分の冷めた炬燵《こたつ》へ、新しく火と炭とを追加のためかと思うとそうでもなく、静かに廊下を通って、右へ鍵の手に廻ったいちばん奥の部屋まで来て見ました。
 そこへ来ると、上草履《うわぞうり》が綺麗《きれい》に一足脱ぎ揃えてあるのを見て、ホッと安心したような思い入れで、外からそっと障子を引き、
「お休みでございますか」
「いいえ、起きていますよ」
「御免下さいまし」
 お雪は障子を引開けて中へ入りました。ここは松の間というけれども、実は源氏の間とでもいった方がふさわしいのでしょう、十余畳も敷けるかなり広い一間ですが、その襖《ふすま》の腰にはいっぱいに源氏香が散らしてある。
「めっきり、お寒くなりました」
「寒くなったね」
 室の主というのは机竜之助であります。竜之助も同じような丹前を羽織って、片肱《かたひじ》を炬燵の上に置いて、頬杖《ほおづえ》をしながら、こちらを向いて、かしこまっておりました。
 何を考えるでもなし、考えないでもなし、白骨の湯にさらされて、本来|蒼白《そうはく》そのものの面《おもて》が、いっそう蒼白に冴《さ》えているようなものだが、思いなしか、その白い冴えた面に、このごろは光沢というほどでもないが、一脈の堅実が動いていると見れば見られるでしょう。例の五分月代《ごぶさかやき》も、相当に手入れが届いて、底知れず沈んでいること、死の面影《おもかげ》のようにやつれていることは、以前に少しも変らないが、どこかにかがやかしい色が無いではない。
 お雪ちゃんは、前へ廻って、そっと炬燵《こたつ》のふとんを開いて手を入れてみて、
「まあ、先生、すっかり火が消えてしまっているじゃありませんか、お呼び下さればいいのに」
と言いました。この娘は自分の炬燵が冷めたのに驚いて、他のことを心配して、ここへまで調べに来て見ると、これは全く火の
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