絹糸でもって、胡蝶《こちょう》の形を縫い出して楽しんでいるまでのことです。手すさみに絵をかいて楽しむような気持で、針を運ばせながら、浮き上って来る物の形に、自分だけの興味を催して、自己満足をしているまでのこと――風呂敷には狭いし、帛紗《ふくさ》には大きい。縫い上げて、自家用にしようか、贈り物にしようかなどの心配はあと廻しにして。
 物を縫うている女の形を見れば、それが若くとも処女というものはない。否《いな》、娘というものはない。Wife《ワイフ》 という文字には、物を縫う女という意味があるそうですが、いかなる若い娘さんをでも、そこへ連れて来て縫物をさせてごらんなさい。それはもう、娘ではない、妻である。否、妻であるほかの形に見ようとしても、見えないものであります。
 自然、悍婦《かんぷ》も、驕婦《きょうふ》も、物を縫うている瞬間だけは、良妻であり、賢婦であることのほかには見えない。
 自分の娘を、いつまでも子供にしておきたいならば、縫物をさせてはならない。
 老嬢の自覚を心ねたく思う女は、決して針さしに手を触れないがよろしい。
 独身のさびしさを心に悩む男は、淫婦《いんぷ》を見ようとも、針を持つ女を見てはいけない。だが、安心してよいことには、お雪ちゃんがこうして針を持っているところを、誰ひとり見ている者はないし、お雪ちゃんとても、誰に見せようとの心中立てでもなく、無心に針を運んでいるうちに、無心に歌が出て来る。心無くして興に乗る歌だから、鼻唄《はなうた》といったようなものでしょう。
 それはお雪ちゃんが、名取《なとり》に近いところまでやったという長唄《ながうた》でもない。好きで覚えた新内《しんない》の一節でもない。幼い時分から多少の感化を受けて来た、そうして日本のあらゆる声楽の基礎ともいうべき声明《しょうみょう》のリズムに、浄瑠璃《じょうるり》の訛《なま》りがかかったような調子で、無心に歌われる歌詞を聞いていると、万葉集でした。
 このごろ中、心にかけて習っている万葉集の中の歌が、そこはかとなく、例の声明と、浄瑠璃のリズムで、お雪ちゃんの鼻唄となって、いわば運針の伴奏をなして現われて来るらしい。
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巌《いはほ》すら
行きとほるべき
ますらをも
恋てふことは
後《のち》悔いにけり
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 これだけはリズムの節調ではなく、散文の口調《くちょう》で、すらすらと口をついて出でました。
 なぜか、お雪ちゃんはこの歌が好きです。それは歌の心が好きなのではなく、口当りがいいから、それで思わず繰返されるのかも知れない。そうでなければ、相聞《そうもん》の歌では、これがいちばん男性的であるというような意味で、良斎先生の愛誦《あいしょう》となっているところから、その口うつしが、思わず知らず、お雪ちゃんの口癖になっているのかも知れない。
 万葉の歌は上代の歌人の――上代の歌人とのみいわず、すべての人類の血と肉との叫びであります。人生に、恋にいて恋を歌うほど苦しいものはなく、恋を知らずして、恋歌をうたうほど無邪気なものはありますまい。
 その時、湯槽《ゆぶね》の方で高らかに笑う男の声がする――まもなく、トントンとかなり足踏みを荒く三階の梯子《はしご》を上る人の足音がする。もしやとお雪ちゃんは狼狽《ろうばい》しました。ここへ誰か訪ねて来るのではないか知ら。あの遠慮のない北原さんでも押しかけて来るのか知ら……それではと、あわただしく縫取りを押片づけて心構えをしていましたが、足音はそれだけで止んで、ここへ渡って来る人もありません。
 来《きた》るべき人が来ないと思うと、淋しさはまさるものです。ことに、あれほど荒っぽく三階の梯子段を踏み鳴らしながら、上ったのか、下りたのか、それっきり立消えがしてしまったのでは、徒《いたず》らに人に気を持たせるばかりのものです。
 いやなおばさんと、男妾《おとこめかけ》の浅吉とがいなくなってから後、この三階は、わたしたちで占領しているようなもの。上ったならば、当然、わたしたちを訪れる人であろうのに……立消えになってしまった。
 お雪ちゃんは、また縫とりをとり上げる気にもならず、相聞の歌を繰返す気にもならず、手持無沙汰のかげんで、しばらく所在なくしていたが――その時、ゾッと寒気《さむけ》がしたものですから、急いで、ぬぎっぱなして置いた黄八丈の丹前を取って羽織りかけ、そうして、こたつ[#「こたつ」に傍点]のそばへずっと膝を進めて、からだをすぼめて、両手を差しこんで、ずっと向うのふすま[#「ふすま」に傍点]を見つめたままでいました。
 この時、湯槽は急に賑《にぎ》わしくなって、高笑いと、無駄話の声までが、手に取るように響いて来ますけれども、お雪ちゃんはそこへ行ってみようという気にはなりません。

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