大菩薩峠
めいろの巻
中里介山

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白骨《しらほね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本来|蒼白《そうはく》そのものの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]
−−

         一

 信濃の国、白骨《しらほね》の温泉――これをハッコツと読ませたのは、いつの頃、誰にはじまったものか知らん。
 先年、大菩薩峠の著者が、白骨温泉に遊んだ時、机竜之助のような業縁《ごうえん》もなく、お雪ちゃんのようにかしずいてくれる人もない御当人は、独去独来の道を一本の金剛杖に託して、飄然《ひょうぜん》として一夜を白槽《しらふね》の湯に明かし、その翌日は乗鞍を越えて飛騨《ひだ》へ出ようとして、草鞋《わらじ》のひもを結びながら宿の亭主に問うて言うことには、
「いったい、この白骨の温泉は、シラホネがいいのか、シラフネが正しいのか」
 亭主がこれに答えて言うことには、
「シラフネが本当なんですよ、シラフネがなまってシラホネになりました……シラホネならまだいいが、近頃はハッコツという人が多くなっていけません――お客様によってはかつぎ[#「かつぎ」に傍点]ますからね」
 シラホネをハッコツと呼びならわしたのは、大菩薩峠の著者あたりも、その一半の責めを負うべきものかも知れない。よって内心に多少の恐縮の思いを抱いて、この宿を出たのであったが、シラホネにしても、ハッコツにしても、かつぐどうりは同じようなものではないか。こんなことから、殺生小屋を衛生小屋と改めてみたり、悲峠《かなしとうげ》をおめでた峠とかえてみたりするようなことになってはたまらない。
 そんなことまで心配してみたが、きょうこのごろ、風のたよりに聞くと、白骨の温泉では、どうか大菩薩峠の著者にもぜひ来て泊ってもらいたい、ここには四軒、宿屋があるから、一軒に一晩ずつ泊っても四晩泊れる――と、何かしらの好意を伝えてくれとか、くれるなとか、ことわりがあったそうである。してみれば、ハッコツの呼び名が宣伝になって、宿屋商売の上にいくらかの利き目が眼前に現われたものとも思われる。しかし、宣伝と、提灯《ちょうちん》が、どう間違っても、白骨の温泉が別府となり、熱海となる気づかいはあるまい。まして日本アルプスの名もまだ生れてはいないし、主脈の高山峻嶺とても、伝説に似た二三の高僧連の遊錫《ゆうしゃく》のあとを記録にとどめているに過ぎないし、物を温むる湯場《ゆば》も、空が冷えれば、人は逃げるように里に下る時とところなのですから、ある夜のすさびに、北原賢次が筆を取って、
[#ここから2字下げ]
白狼河北音書絶(白狼河北、音書《いんしょ》絶えたり)
丹鳳城南秋夜長(丹鳳城南、秋夜《しゅうや》長し)
[#ここで字下げ終わり]
と壁に書きなぐった文字そのものが、如実に時の寂寥《せきりょう》と、人の無聊《ぶりょう》とを、物語っているようであります。
 その時、その温泉に冬越しをしようという人々――それはあのいや[#「いや」に傍点]なおばさんと、その男妾《おとこめかけ》の浅吉との横死《おうし》を別としては、前巻以来に増しも減りもしない。
 お雪ちゃんの一行と、池田良斎の一行と、俳諧師《はいかいし》と、山の案内人と、猟師と、宿の番人と、それから最近に面《かお》を見せた山の通人――ともかくも、こんなに多くの、かなり雑多な種類の人が、ここで冬を越そうとは、この温泉はじまって以来、例のないことかも知れません。
 そこで、この一軒の宿屋のうちの冬籠《ふゆごも》りが、ある時は炉辺の春となり、ある時は湯槽《ゆぶね》に話の花が咲き、あるときはしめやかな講義の席となり、ある日は俳諧の軽妙に興がわくといったような賑わいが、不足なく保たれているのだから、外はいかに寒くなろうとも、この湯のさめない限り、この冬籠りに退屈の色は見えません。
 ことに、この冬籠りに無くてならぬのはお雪ちゃんであります。見ようによれば、お雪ちゃんあるがゆえに、この荒涼たる秋夜に、不断の春があると見れば見られるのであります。誰にもよいお雪ちゃん――どうかすると、このごろめっきり感傷的になって、ひそかに泣いているのを見るという者もあるが、それでも表に現われたところは、いつも気立てのよい、人をそらさぬ、つくろわぬ愛嬌《あいきょう》に充ち満ちた微笑を、誰に向っても惜しむことのないお雪ちゃん――
 お雪ちゃんは今、柳の間で縫取りをしている。
 縫取りといっても、ここでは道具立てをしてかかるわけにはゆかないから、ただあり合せの黒いびろうど[#「びろうど」に傍点]に、白の
次へ
全94ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング