言いましたけれど、それはお銀様の狼狽《ろうばい》を、叱責《しっせき》するの言葉でもありません。
 お銀様も、それには何とも答えないで、上からおしかぶせて見下ろすように、燃えさかるわが家の火をながめていましたが、その怖ろしい形相《ぎょうそう》のうちに、白眼がちにかがやいている眼の中に、強い光の冷笑が漂うているのは不思議です。
 これは恐怖と狼狽の余り、前後の見さかいもなくして、ここまで逃げて来た人の態度でも、表現でもありません。
「弁信さん、火事というものは、近いところにいると怖いが、こうして遠くで見ていると、愉快なものねえ」
と言いました。
「なんとおっしゃいます」
 弁信は、こちらを向かずに、押返しました。
「弁信さん、あなたには、あの盛んな火の色が見えないでしょうが、人の災難は別として、ただ見ている分には、なんという壮快なながめでしょう」
「そうですか、左様に見えますか、人間の災難も見ようによっては、愉快、壮快というものに見えるものですか。もし、そうだとすれば、人間の眼というものは怖ろしい魔術使いでございます。私は左様な魔術使いを、自分の面《かお》の中へ置かなかったことが幸いになります。人の災難を見て、愉快、壮快と感ずるような眼という魔術使いが、私のこの小さな面《かお》という領分の中にいてくれなかったことが、不具ではなくして、光栄であったかも知れません」
「弁信さん、理窟は抜きにして下さい、火というものは愉快なものです、壮快なものです、いっそ、この地上にある最も痛快至極なものであるかも知れません」
 お銀様は、冷然として、昂奮してきました。冷然として昂奮はおかしいようですけれども、事実、さきほど、弁信に行当った当時は、多少とも、恐怖と、狼狽とに、とらわれていないでもありませんでした。ここへ来て、まともに、わが家の火の全景を見渡した時、はじめて冷然として、その持てるところの強味が、土から生えたもののようであります。
 これに対して弁信の落ちつきは、例によって、憂《うれ》うるが如く、愛するが如く、憐《あわ》れむが如きの冷静であります。
 弁信が冷然として答えずにいると、冷然として昂奮してきたお銀様が、
「ごらんなさい、この地上に、あれほどの力を持った暴君がありましょうか」
「暴君とおっしゃるのは」
「ごらんなさい、私の家は、王朝以来の家柄だと申しておりました、甲斐《かい》の国では、並びのない大家だとかいわれておりました、それをあの火は、一晩のうちになめ[#「なめ」に傍点]てしまいます」
「お嬢様――あなたは、それがいいお気持なのですか」
「まあ、お聞きなさい、人の惜しがるものでも、惜しがらないものでも、火はああして平等に灰にしてしまいます」
「平等という言葉は、左様な時に用うべき言葉ではありません」
「それでも、火には依怙贔屓《えこひいき》というものが絶対にないではございませんか、焼けるものと、焼けないものとは、火の力の度の加減があるのみで、この地上で、火に焼けないものとて、何一つもありません」
「いいえ、あります、あります」
「ありません、決してありません、火は愛です、絶大の愛です、誰が、火を怖ろしいと言いましたろう、誰が、火を災《わざわい》といいましたろう、あのくらい、隔てなく愛するものはこの世にはありません、ひとたび火の洗礼を蒙《こうむ》った人には、微塵も未練《みれん》というものが残らないではありませんか、あの絶大な愛の力に溶かされ、包まれ、同化されてゆかない何物もないではありませんか、火は力です、火は愛です、わたしはあの火にあこがれる」
「それは、力でも、愛でもありません、破壊です、絶滅です、本当の力には救いがなければなりません、本当の愛には生命がなければなりません」
「そんなことはわたしは知らない、わたしはあの火に救いを認めます、あの火に絶大無辺な愛を認めます。考えてごらんなさい、人間の愛というものに、依怙《えこ》の沙汰《さた》のないというところがドコにありますか。親が子を愛するのが本当なら、親にそむく子はなかるべきはずなのに、この世では、親も、子も、みなあいそむいています、形でそむかないものは、心でそむいています。師匠が弟子を愛するというのも、弟子が師匠を慕うというのも、みんな嘘です、嘘でないにしても、本当の愛ではありません。本当に許し合っている夫婦、信じ合っている友というものが、この世にいくつありますか。釈迦や、キリストや、孔子の愛――慈悲でさえも、総《すべ》ての人間が救われた時がありましたか。その大きな手がひとたびひろがれば、一切万物を、みんな己《おの》れのふところに同化してしまうという愛が、この人間のこしらえた、人間の産み出したものの中に、一つでもありますか。それに比べて、あの火の力をごらんなさい。王朝以来の
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