ろなのです、あなたこそ、どうして、今時分、こんなところへ、お一人でおいでになりましたのですか」
「エエ、わたしはね……逃げて来たのよ」
「火事でございますね」
「エエ」
「火事は、お屋敷うちには違いございませんが、どなたかのお住居《すまい》ですか、それとも納屋か、厩《うまや》か、土蔵か、物置かでございましたか」
「あのね、弁信さん、火事は本宅なのよ」
「御本宅――」
「エエ、そうして、わたしの屋敷へも移るかも知れない、あの火の色をごらん」
「それは大変でございます、それほどの大変に、どうして、あなた様だけがお一人で、こっちの方へ逃げておいでになったのですか、あとのお方には、お怪我はありませんか」
「それは知らない、わたしは怖いから、わたしだけが逃げて来ました」
 そういって、お銀様は立ちどまったままで、後ろを顧みて、竹の藪蔭《やぶかげ》から高くあがる火竜の勢いと、その火の子をながめて、ホッと吐息をついた時、弁信の耳には、それが早鐘《はやがね》のように聞え、その口が、耳までさけているように見えましたものですから、
「ああ、お嬢様、あなたは怖ろしいことをなさいましたね」
「ええ」
「あなたは、いけません、それだから、私が怖れました、ああ、今や、その怖れが本物になりました」
「何を言ってるの、弁信さん」
「お嬢様、あなたこそ、何を言っていらっしゃるのです」
「わたしは何も言ってやしない、ただ、怖いから逃げて来たのよ」
「火事が怖ろしいだけではございますまい、あなたのお胸には、良心の怖れがございます」
「何ですって」
「ああ、あの火事の知らせる早鐘よりも、あなたのお胸の轟《とどろ》きが、私の胸に高く響くのはなにゆえでしょう、あの火事の炎の色は見えませんけれど、あなたの息づかいが、火のように渦を巻いているのが聞えます」
「弁信さん、出鱈目《でたらめ》を言ってはいけません、誰だって……誰だって、こんなに急いで来れば動悸《どうき》がするじゃありませんか、そんなことを言うのはよして頂戴、そうでなくってさえ、わたしは怖くてたまらない」
「何が、そんなに怖いのでしょう、火事は家を焼き、林を焼くかも知れませんが、人の魂を焼くものではありません」
「だって、だって、弁信さん、お前は眼が見えないから、それで怖いものを知らないんでしょう」
「怖いのは、火事ではありません、人の心です」
「いやなこと言わないようにして下さいよ」
「本当のことを言っているのでございます、私には、火事の火の色は見えませんけれども、心の火の色が見えます」
「今は、そんなことは言わないで頂戴」
「そうして、お嬢様、あなたは、これからどこまでお逃げなさるつもりですか」
「そうでしたね、こんなに逃げたって仕方がありませんわね、それがどこまで逃げられるものでしょう」
「わたしと一緒にお帰り下さいまし」
「まあ、ゆっくりしておいで、あの火事をごらん、まあ、なんて綺麗《きれい》な火の色でしょう」
 お銀様と、弁信は、もつれるように並んで歩きながら、広い竹藪《たけやぶ》の中の小径《こみち》を通って笹の間から、チラチラと見える火の勢いがようやく盛んなのを前にして、やがて藪を出ると、そこは、だらだら下りの小高いところになっていました。
 欅《けやき》の大木を横にして、いま盛んに焼けつつある大火を見ると、お銀様が踏みとどまって、
「弁信さん、母屋《おもや》が焼けていますよ」
 弁信もまた、その小高いところに踏みとどまっている。小さな姿いっぱいに、火の色が照り返しています。
 小づくりな、色の白い弁信の姿が、この時は紅玉《こうぎょく》のように赤く見えました。
「助かりませんか」
「もう、駄目でしょうよ」
「ああ、怖ろしい音がします」
「でも、大切なものは、みんな取り出してしまったでしょうから、安心です」
「あのお文庫倉へは火が移りませんでした? あの中には、私が聞いてさえ惜しいものがたくさんございます」
「あれは大丈夫、目塗《めぬり》が届いているから」
「あなたのお屋敷は?」
「もう焼けてしまっているでしょう、母屋《おもや》へ移る前に、焼け落ちたかも知れません」
「それでは、あなたのお屋敷へ、一番先に火が廻ったのですね」
「え」
「もしや、あなたのお部屋が、その火元ではありませんか」
と弁信が後ろを振向きました。この時お銀様は、弁信とは一間ほど離れて立っていたのでしたが、
「そうかも知れません」
「それで、お嬢様、誰よりも先にその火を見つけたのは、あなたではございませんでした?」
「ええ、そうなのよ」
「その時、あなたはなぜ、人を呼んで消し止めることをなさらないで、こんな遠くまで逃げて来ておしまいになりましたか、あなたにも似合わないことではありませんか」
 弁信は、火の方に面《おもて》を向けながらこう
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