に心服しておりながらも、どうかすると、そのいけずうずうしいことに業《ごう》を煮やすことはありながら、人命を扱うことにおいて、茶飯を食うような手軽さと、周到にして抜かりのなかりそうな用意のほどを見ると、おらが先生はエライ、と舌を捲かないということはありません。
道庵はこれだけの仕事を、極めて無雑作に済まして、それから、焚火の傍へよって、かます入の煙管《きせる》を取出して火の中へつっ込み、しゃがみ腰になって、一ぷくつけてすまし込んでいると、そこへ人気が立ち上りました。
当座の人気とは言いながら、さほどの名医が来合わせたということが、稲妻《いなずま》のように宿の上下にひろがったと見え、ぜひ一度、先生に来てみていただきたい、先生に見ていただきさえすれば、病人がその晩に死んでも心残りはないという注文である。先生、お急ぎでなければ、拙者は信州の飯田の者でござるが、飯田まで御足労が願えますまいか――と申し出でる者もある。今晩はぜひ手前共へお泊り下さるようにと、招待の競争が起る。
しかし、最も多くの感謝と、尊敬とを払っていたものは、現に被害者を出して救われたところの、尾州家の木曾の御料林の見廻りの役人たちです。
「先生は、上方見物の道中と、承ったが、苦しからずば、これより尾州名古屋へ道をお枉《ま》げになって、それから東海道方面を、上方上りをなされてはいかがでござる、尾州名古屋を一見なさるお志がござらば、われわれどもぜひ御案内を致したい」
これを聞いて道庵先生が、一途《いちず》に賛成をしてしまいました。
これはもとより、その志であったのです。先輩の弥次郎兵衛、喜多八が、東海道中膝栗毛なんぞと大きい口を利《き》きながら、源頼朝が生れ、太閤秀吉が出で、金のしゃちほこがあり、名古屋味噌が辛《から》く、宮重大根《みやしげだいこん》が太いところの尾張の名古屋を閑却しているのを、ヒドク憤慨していたところですから、一議におよばず、この勧誘に応じて、一行と共に尾張名古屋に乗込むことに相定めました。
三十
どこから来るともなく、真暗いところの真中で、弁信法師の声、
「モシ、お嬢様――」
と呼んで、暫《しばら》く休みました。
ここで、弁信がお嬢様と呼んだのは、それはお銀様のことでしょう。しかし、ここにはお嬢様の姿も見えないし、暫く待ってみても、その返事がないのですから、おそらくこの近いところに、呼びかけた当人はいないにきまっております。しかし、また、呼びかけた当人がいても、いなくても、弁信は、ふとその頭に上り来ったほどの人は、かたわらに在るが如く呼びかけるの習わしは、今に始まったことではありません。
「モシ、お嬢様、あなたはまた、何かおむつかりになっておいでになりますね、お腹立になっておいででございましょう、あなたが、烈しい憤怒《ふんぬ》の念に駆《か》られておいでになる有様が、私の前に、手に取るように浮んでいるのでございます――」
こういって弁信法師は、真暗い野原の中に耳を傾けて、また暫くは無言でおりました。別段、返事を期待しているとも見えないが、何か心には期するところがあるにはあるもののようです。
第一、ここは白根三山の麓《ふもと》、平野のまっただなかであるか、或いは平野と同じほどに広い藤原の庭内であるか、それすらもよくわかりません。しかし弁信の立っている地点は、屋外であることに間違いありません――絶叫してみたところで、そうは容易《たやす》く人の耳に触れるほどの距離ではないのであります。まして弁信の声は、怨《うら》むが如く、泣くが如く、憂《うれ》うるが如く、教うるが如き低音でありました。一向に返事のないことを予期して、そうして弁信が、おもむろに続けました。
「お嬢様、あなたが、むらむらと瞋恚《しんい》の炎を燃やして、身も、世もあられず、お怒りになるそのお心が、離れていても、ぴたりと私の胸に響いて参ります。あなたの胸に燃やしておいでになる憤怒のほのおが、遠く私の魂をも焼くのでございます。人間の煩悩《ぼんのう》妄想《もうそう》のうち、憤怒《ふんぬ》の一念ほど、人の魂を焼き亡ぼす力のあるものはございませぬ。その怖ろしい力のために、海の潮が満引《みちひき》をするように、あなたのお心のうちが、日夜に動揺致しますのを見るにつけ、どうぞして、そのお腹立を和《やわ》らげ、そのお憤りの心をしずめてお上げ申したいと、思わぬことはございません」
と言いながら、弁信はソロソロと歩みはじめました。
「あ、いけません、それが悪うございます、それですから、あなたのその憤怒の心に油が加わるばかりでございます、消えるどころではない、いよいよ燃え上るばかりでございます、そういうことをなさるから、それで……あなたの身と、魂が、ジリジリと燃焼して参り、やがてそれ
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